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牧師紹介

中川克己牧師プロフィール

1973年、愛知県瀬戸市で生まれる。

自衛官だった父の転勤で金沢に転居、小学校2年生の時に近くにあった金沢聖書バプテスト教会の日曜学校に行くようになり、イエス・キリストを信じる。しかし、小学校4年生の3月、再び父の転勤で名古屋に転居し、教会から離れてしまう。

その後、大学受験をきっかけに再び金沢の教会に行き、イエス・キリストが自分の罪の身代わりに死んでくださったことを、もう一度教えられる。イエス様は、自分の最も醜い部分をご存じでありながら、その私のためにいのちを捨てて愛してくださったことを知った時、生涯をキリストのために生きることを決心。

大学で農業を学び、名古屋の障がい者団体で働いた後に神学校に入学。名古屋聖書バプテスト教会、岡崎聖書バプテスト教会、金沢聖書バプテスト教会で伝道師として働かせていただいた後、2016年から足利聖書バプテスト教会に招聘され、齋藤一彦師から牧師を引き継ぎ、現在に至っている。

救いの証し

救いの証とは、どのように神が私を救いに導いてくださったかを証言することです。

私の家は、無宗教で(本当は浄土真宗でしたが、教えも聞いた事はなく、葬式以外で意識することはありませんでした)、教会が何かも知りませんでした。そのような私が教会に行くようになったのは、小学校2年生の時、学校の帰りに日曜学校のチラシをもらったのがきっかけです。日曜学校がどんなところか知らない私は、母に聞くと、「白い服を着た人が歌うところだよ」と言われ、歌が好きだった私は、すぐに行ってみようと思ったことを覚えています。そこで初めて、聖書の話しを聞き、イエス様という神様がおられること、その方が私の罪ために十字架にかかってくださったことを知りました。そして幼心に信じたのを覚えています。

しかし、小学校4年生の3月に父の転勤で名古屋に行くと、クリスチャンホームでもなかった私は、自分から教会を探すこともせず、教会へ行かなくなってしまい、イエス様のことも忘れてしまいました。ただ、クリスマスになったり、とくにクリスマスキャロルが聞こえてくると、イエス様のことを思い出すことはありました。

 そのような私が高校に入ったとき、私の世代は第二次ベビーブームで人数が多く、受験戦争が激しかったこともあり、競争に勝つために勉強するということに抵抗を覚えるようになりました。自分自身の努力不足もありましたが、本当に学びたいことがあるわけでもないのに、学歴のために大学に行くという流れがどうしても納得出来ませんでした。また、もともと体が弱かった私は、喘息の発作が続くようになったのをきっかけに、だんだん不登校になっていきました。そして、家で過ごすことが多くなった私は、自分のことを見つめる時間を持つようになりました。父が自衛官で厳しく育てられた私は、自分はまじめで親切だという思いがありました。そして、ルールを守らなかったり、品の良くない友人を見下していたところがありました。ところが、よく考える内、誰かが本当に困ったとき、たとえば吐き戻して床を汚してしまったりとかしたときに、私は動けないのに、私が普段良くないと思っていた友人の方が、真っ先にぞうきんを取りに行き、人を助けていたことなどを思い出しました。自分は親切なつもりでいましたが、それは自分のためであって、本当に相手の立場で考えられていなかったこと、いざとなるといつも自分を守ることばかりを考えていたことに気づかされました。そして、不登校であることよりも何よりも、自分の心がこれほどまでに醜かったを思い知らされました。

 そして勉強においても、人間性においても生きる意味を失った私は、死ぬことばかりを考えていました。けれども、受験を機に、小学校時代を過ごした金沢に行ったとき、当時日曜学校に行っていた金沢聖書バプテスト教会へ行きました。礼拝の日でもないのに、牧師夫妻は私を快く受け入れて話しを聞いてくれました。そして、イエス様は、この私の醜い心(聖書では「罪」と呼んでいます)をよくご存じでありながら、その醜い私を愛し、その私の身代わりに十字架の刑罰を受けてくださったことを、教えられました。小学校の時に聞いた話しでありましたが、当時はそれほど大きなことと考えていなかったように思います。けれども、自分の心の醜さをイヤというほど教えられていた私にとって、また、うわべだけのつきあいに嫌気がさしていた私にとっては、ここにこそ私の求めていた故郷があることに気づかされました。そして、そのように罪深い私にもイエス様が生きる意味を与えてくださることを知ったとき、自分のような者でも生きられるという思いが与えられました。

 そのようにイエス様を信じてから、今まで人にどう思われるかばかりを気にして動けなかった私でしたが、自分がどう思われるかではなく、自分がその人を愛せるか、その人のために何ができるかを考えるようになりました。もちろん、今でもついつい自分中心に考えてしまう弱さを持っています。それでもなお、罪人である私のためにイエス様がいのちを捨てて愛してくださったことを思い返す時に、初心に立ち返り、悔い改めさせられます。その時に本当に神の愛の豊かさを教えられ、かえって心が自由にさせられます。そして、このキリストの救いを、一人でも多くの方に知っていただきたいと願っています。

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。Ⅰヨハネ3:16

実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ローマ人への手紙5:6~8

Posted by katsumibaptist