2018年 イースター集会

百合の花
イースターは、イエス・キリストの復活を記念する
キリスト教のおいわいの日です。

わたし(イエス)は、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。―聖書―

4月 1日(日)

イースター礼拝
午前11:00~12:00
イースター子ども会
午前 9:30~10:30

※どの集会も参加費無料です。

イエス・キリストの復活があたえる希望

イースターは、イエス・キリストの復活を祝う日です。そして、イエス・キリストの復活は、聖書の教える希望の中心でもあります。

復活は、最も信じにくいことの一つです。しかし、人は復活よりも、自分の希望が否定されることの方が信じられません。私たちは、自分の問題に目を向けるのが怖いのです。ときに抽象的な意味での復活の方が信じやすいのです。しかし、イエスの十字架と復活は、人に対して自分の醜さに目を向けさせ、なおその向こうに生きる力を与える神の救いの道です。聖書を通して、神が示された復活の希望とその意味についてともに学びませんか。

イエスの復活の意味

弟子たちは復活以前にイエスの死が受け入れられなかった

私たちは、自分にとって都合の悪いことが受け入れられません。復活はありえないことだから信じられないと思われがちですが、当時の弟子たちは復活以前に信じられないことがありました。それは、救い主の「死」だったのです。ユダヤ人にとっての救い主とは「ローマ人の支配からの解放者」でした。その支配に対する民族的勝利をもたらす方、それが彼らの望む「救い主」でした。しかし、イエスの十字架と死は、彼らの希望を完全に打ち砕いたのです。

救い主の受難は自分の弱さと向き合わせた

イエスは「人の子(救い主)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきこと」(聖書)を、少なくとも3回は弟子たちに教えられました。しかし、弟子たちはイエスの復活以前に、救い主が苦しめられ、捨てられ、死ななければいけないことを受け入れられなかったのです。ですから、イエスが何度教えられても、「何かのたとえだろう」としか思えませんでした。私たちは、都合の悪いことは信じようとしないばかりか、自分に都合良く解釈して、真実を曲げてしまいます。弟子たちは、救い主はローマからの解放をしないという事実を受け入れられませんでした。また、イスラエルの主流派であり、権力者から捨てられることは受け入れられなかったのです。何より十字架で死ぬなどあり得ませんでした。なぜなら、それは人の前にも、神の御前に失格者であることを示すできごとだったからです。彼らが救い主の十字架を受け入れるということは、選民だと自負していた自分たちもまた、神の御前に失格者であることを受け入れなければならなかったのです。イエスの十字架は、私たちすべては神の御前に失格者であると認めることを要求しているのです。

苦難の向こうにある栄光

イエスはユダヤ人すべての希望を砕いて、十字架で死なれました。イエスの死は、弟子たちの期待をも完全に砕いてしまいました。その弟子たちは、イエスが復活してもなお、イエスの復活を信じられません。その弟子たちにイエスは言われます。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか」。世の中が捨て、見くだしても正しい道はあるのです。ユダヤ人も自分たちが認められる道にすがって神を見失い、傷つけ合っています。私たちも同じです。

私たちは、まず自分の過ち、自分の醜さに目を留めて良いのです。イエスの復活はその先に、真の勝利を示す、神の救いの道なのです。