2019年 イースター集会

百合の花
イースターは、イエス・キリストの復活を記念する
キリスト教のおいわいの日です。

わたし(イエス)は、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。―聖書―

4月 21日(日)

イースター礼拝
午前11:00~12:00
イースター子ども会
午前 9:30~10:30

※どの集会も参加費無料です。

イエス・キリストの復活があたえる希望

イースターは、イエス・キリストの復活を祝う日です。そして、イエス・キリストの復活は、聖書の教える希望の中心でもあります。

復活は、最も信じにくいことの一つです。 復活は、最も信じにくいことの一つです。けれども、多くの人を立ち直らせ、逆境に打ち勝つ力を与えてきたのも、このイエスの復活に対する信仰です。この世の困難な現実、自分の無力さの中で、人は今の自分が認められ、安全でいられる、無難な道を探そうとする誘惑にかられます。しかし、その中でも誠実で真実な歩みをすることは決して無駄にならない。そのことの神からの確証が、イエスの復活なのです。

イエスの復活は世と自分の無力さに対する勝利

世の中を支配する無力感に対して

この世には、そして、とくに今の時代、この世の中をある種の無力感が取り巻いています。それは、自分一人何かをしても、何も変わらないのではないか。良いことを求めて、また最善のために努力しても、何も変わらないのではないか。そして、それは単なる杞憂ではなく、しばしばそのような現実と向き合わざるをえないからではないでしょうか。

イエスの十字架は、まさにそのような無力の象徴かに見えました。イエスは、言葉にも行いにも、何の罪過ちもありませんでした。多くの人が少なくともイエスを神から遣わされた預言者と認めました。イエスに対して腹を立てる権力者たちでさえ、イエスに対して、何の間違いも、欠点も見いだすことができなかったのです。

けれども、正しい人はしばしば反感を買い、多くの人の信頼を集める人は、妬まれます。イエスもまた、人々の反感と妬みによって、十字架につけられました。権力たちに操作された裁判、そして、自分の身の安全を守りたかった総督の手によって、イエスは十字架刑に処せられたのです。どれだけ神に従っても、正しく生きても、この世はそのような人の脚を引っ張る。そして、結局社会に捨てられ、抹殺されてしまうならば、意味がない。イエスの十字架は、まさに真実の善を求めて生きることの無力さを象徴したようなものでした。

イエスの復活はこの世の力に対する勝利

この世は、互いに脚を引っ張り合い、出る杭を打ち、他の人や自分の良い芽を摘んでしまう愚かさが取り巻いています。聖書は、この問題は人間の持つ罪の性質が原因であることを教えております。

人間の罪の力は、善の芽を潰し、自分の希望を求めているつもりでいながら、人の希望を潰して生きている生き方へと人を誘います。そして、人間の罪の性質は、神が遣わされた救い主であるイエスさえも、社会から捨て去り、十字架にかけてしまいました。けれども、人々が自分たちの欲望や保身のために十字架につけ、殺したイエスを、神はよみがえらせたのです。イエスの弟子ペテロは次のように証言しました。「あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、 いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です」(聖書)。このように証言したペテロは、イエスが十字架で死なれたとき、失望し、周囲の人を恐れ、閉じこもってしまいました。けれども、復活したイエスにお会いしたペテロは、たとえ状況が不利になっても、神の目に正しい生き方をすることを恐れなくなったのです。イエスの復活こそ、この世の無力感を打ち砕く、神の力であり、希望なのです。神はあなたをもこの力で生かそうとしておられるのです。