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みことばの糧16

最も求めるべき知恵

あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。 ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。

ヤコブの手紙1:5~6

価値あるいのちに必要な知恵

 学校で勉強が出来ても、実際の社会でそれが活きるとは限りません。本当の知恵というものは、私たちの人生の質、いのちの質を左右する、現実的、実践的な知恵です。聖書の救いが私たちにもたらす知恵とは、まさにこのように実践的、現実的な知恵です。ヤコブの手紙は、この知恵をテーマにしています。というのは、当時、信仰が頭の中だけ、心の中だけの問題になっていて、現実に活きて働く知恵となっていなかったからです。しかし、聖書の教える信仰は、この世での生き方を変え、試練をも喜びとし、いかなる環境でも力強い、実りある歩を実現する実践的な神の知恵です。私たちは、この知恵をこそ求めるべきなのです。私たちがこの知恵を神に求めるとき、「だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神」は、必ずその「知恵を与えてくださ」ると聖書は約束しています(5節)。

この世の処世術とは異なる神の知恵

 とは言え、聖書の教える知恵とは、この世の処世術とは異なります。この世の処世術とは、この世をうまく渡り歩いていくために、その場に応じて言葉や態度を使い分けたり、気持ちの持ち方を変えることです。言い方を変えれば、それが真実であろうと、偽りであろうと、良い結果を引き出せばそれでよいという考え方です。そこに真実はありません。しかし、神の知恵、信仰の知恵は異なります。神が私たちの判断や行動をどのように見ておられるか、そしてどのように裁き、あるいは報いてくださるかという知恵です。この知恵が、信じる人の生き方を変え、現実の人生の中で優れた実を結ばせてくださるのです。

 聖書の信仰でなくとも、このように「信じる」ことが知恵を与え、優れた結果を結ぶという現実を少なからず経験しているものではないでしょうか。たとえば、まったく知らない土地に行った時には、現地ガイドの言うことを信じる必要があります。今でしたら、ナビやネットの情報を頼るでしょう。そして、その情報を信じることによって、右に進むか、左に進むかが変わってきます。私自身は、その情報の真偽を知りません。けれども、その情報が正しいならば、その情報に従って下す判断は、目指す目的地に私を導いてくれます。逆に、その情報に従って判断しないならば、その情報は私にとって何の役にも立ちません。このように正しい情報提供者を信じ、信頼することが聖書の教える信仰です。そして、その信仰は正しい結果に通じる道を判断する知恵をもたらす。ヤコブ書は、その知恵を教える書なのです。

 ここには聖書だけしか教えることのできる知恵があります。その知恵は、試練を喜び、苦しむ人を助け、差別をなくし、人を愛し、心の通った善を選び取る生きた知恵、神の知恵です。私たちは、この知恵を神に求めなければならないのです。そうすれば、「だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神」は、必ずその「知恵」を与えてくださるのです。

試練を乗り越える知恵

 では、神が与える信仰の知恵とは、どのような知恵でしょうか。メッセージを短くするためには、ここで終わった方が良いのでしょうが、ヤコブ書がどのような知恵を教えているかについて具体的な点も見ておきたいと思います。

 ヤコブは、2節でこう言っています。「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。」。イエス・キリストを信じていても、様々な苦しみを経験します。それは多くの場合、試練でもあります。聖書の言葉を信じて行動したのに、苦しい結果を経験するからです。けれども、その「試練」「喜び」と思え。しかも「この上もない喜び」だと思いなさいと言うのです。これが「知恵」です。それは、「喜び」だと思えば、試練が乗り切れるという心情的な問題ではありません。「信仰が試されると忍耐が生まれ」(3節)、「そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者とな」るという事実があるからです。神がお与えになる試練には、無駄なものはありません。また、かえって私たちを弱くしてしまうものもありません。必ず、信じる者を成長させ、「完全な者」に近づけるためのものなのです。この事実がわかるならば、私たちは試練を喜べる。ですから、試練に遭ったとき、「なぜ、私ばかりがこんなつらい思いをしなければならないのか」「不公平だ」と考えるのは、知恵のないことです。そのようにしか考えられないときに、私たちは、「だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に」知恵を求めるべきです。そして、神が知恵を与えてくださるならば、私たちは試練をも喜ぶことができる。神は、この知恵を必ず与えてくださる方なのです。

低くされることを誇る知恵

 この試練を喜ぶ知恵について、ヤコブはさらに具体的な内容を伝えます。それは、「身分の低い兄弟は、自分が高められることを誇りとし」「富んでいる人は、自分が低くされることを誇りと」する知恵です(9~10節)。これは、一般的な感覚とは、真逆の考え方です。しかし、これこそが神の視点なのです。「身分が低い」こと自体が幸いなのではありません。この世で身分が低いと、たとえ誠実で優れた働きをしたとしても、評価されないことが多いものです。ですから「身分が低い」人は、自分の価値を評価しにくいものです。けれども、神は、そのようなこの世の身分に囚われないお方です。人の見ていないところで、隠れた働きを見ておられます(マタイ6:4)。そのような神は、神の御前に、誠実な生き方をする人に報いてくださいます。そして、この世で低くされた分、高くしてくださいます。さらに、この世で「身分が低」ければ、うぬぼれるという誘惑にもあいにくいものです。だからこそ、「身分が低」い者も、キリストを信じているならば、誇れるものがあるのです。なぜなら、神ご自身がやがて、必ず高く上げてくださるからです。

 逆に、この世で「富んでいる人」は、危険が多いものです。うぬぼれる誘惑が常にあります。また、その「富」が自分を守ってくれると信じると、痛い目に遭ってしまいます。「太陽が昇って炎熱をもたらすと、草を枯らします。すると花は落ち、美しい姿は失われます。そのように、富んでいる人も旅路の途中で消えて行くのです。」(11節)と聖書は言います。この世の「富」は、その時は揺るがないもののように見えてしまうのですが、長い目で見れば本当に儚いものなのです。やがてそれを失った時、自分の存在、いのちの価値を保障してくれるもの何にもありません。しかし、神は、この地上の「富」でその人を見ることはありません。ですから、この世でちやほやされる人でも、神の御前では、「低くされる」ことになってしまいます。けれども、そのような神こそ、「富」に惑わされず、真実のその人自身に目を留めてくださる方です。その人の隠れた罪を赦すためにも、キリストがいのちを捨ててくださったのです。さらに、神ご自身がその人に、大切な役割を与えてくださっています。ここにその人の価値があるのです。ですから、「富」という虚しい誇りを取り除かれたときに、初めて本当に価値あるものに目を留めることが出来る。やがて失われてしまう虚しい誇りではなく、神が認めてくださる、尽日に価値あるものに目を留めることができるようなる。そうすれば、やがて神ご自身がその人を高めてくださる。だからこそ、神の御前では、富の鎧をはがされ「低くされる」ことが幸いなのです。それは誇るべき事なのです。

 このような知恵を持っているならば、身分が低くされようとも、多くの富を持っていようとも、試練に打ち負かされることはありません。誘惑に陥って、道を踏み外す危険からも守られます。これこそ、神の知恵なのです。

この知恵を求め、実践して生きる幸い

 これが、単なる心の持ちようだと考えるならば、それは知恵ではなく、何の力もありません。神の知恵は、この世の処世術のような、うわべだけのものではありません。逆に、精神世界だけの信仰のように、この世で無力なものでもないのです。キリストによって与えられる信仰こそ、この世で最も実りある歩をさせる、神の知恵なのです。この知恵を、神に求めようではありませんか。