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みことばの糧20

2022年10月9日

みことばによる自己吟味がその人のたましいを救う

私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

ヤコブの手紙1:19~21

 

1、キリストの救いは罪の赦しだけではなく人生の質をも変える

 イエス・キリストを救い主として信じる人に、聖書は救いを約束しています。それは、第一に罪の赦しです。聖書が罪と言うのは、この世の法律に違反することだけを指しません。嘘をついたり、ごまかしたり、人のものをほしがったり、表面だけで人に認められようとする等、私たちの心に巣くう悪い性質のことも指しています。その性質のために、実際に悪いことを行ってしまうときもありますし、様々な虚しい行動、人間関係や信頼関係の破壊、争いや、無益な行動を産み出してしまいます。そして、人間はやがて、その罪を神の御前に精算しなければなりません。肉体が死んでも、その責任はなくなりません。しかし、神は人を愛し、その罪の責任を私たちに負わせず、イエス・キリストに負わせるために、罪のない方を十字架につけられました。ここに罪の赦しがあります。これがキリストによる救いの重要な点です。

 しかし、「罪の赦し」だけではその人の性質も、人生も良くはなりません。そこで、神は信じる者に、聖霊という神ご自身を心の中に住まわせ、罪の性質に打ち勝ち、心の動機そのものが変えられていくようにしてくださいました。ここに自由があるのです(25節)。しかし、そのような「自由」、「救い」の内を歩むために必要な態度が、冒頭のみことば「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。」なのです。

2、自己主張が引き起こす問題を避けるために

 しかし、人間は多くの場合、この逆になりがちです、「聞くに遅く、語るのに早く、怒るのに早く」なりやすいものです。「語る」とき、どうしても自分の思いが出てしまいます。自己主張が先に立ちます。しかし、人の話を充分に聞かず、自己主張だけを先にすれば、間違った判断になります。また、たとえ状況を正しく判断していたとしても、自己主張は間違っていることが少なくありません。なぜなら、人間の心には「罪」が巣くっていて、どこかで自分の利益を優先したり、自分に都合良く解釈しようという思いが働いているからです。単純に認識不足、判断力不足であることもあります。それは「怒る」ときに、とくに問題になります。「怒り」は、しばしば極端な行動を産み出し、破壊的な行動につながるからです。しかし、聖書は「怒り」そのものを罪とは言いません。なぜなら、悪に対して怒るのは当然のことだからです。人が虐待されたり、理不尽に苦しめられたり、不正が行われているのを見ても「怒り」がわいてこないならば、それも大きな問題です。本当の悪に対しては、私たちは怒らなければなりません。けれども、人間の「怒り」は、ほとんどの場合、どこかで間違っています。正しい理由から出た怒りであっても、復讐心に囚われたり、自分の問題を無視したり、思いやりに欠けたり、歪んだ正義感に支配されていたりするからです。「人の怒りは神の義を実現しない」と聖書は、はっきり言います。悪に対する「怒り」は必要です。しかし、罪の影響を受けた人間の怒りは、必ず間違いを含み、問題を引き起こします。「人の怒りは神の義を実現しない」のです。それは、イエス・キリストを信じたクリスチャンも同じです。

3、人のたましいを救うみことば

 しかし、イエス・キリストの救いを受けた人には、とても幸いな点があります。「心に植えつけられたみことば」があるという点です。これは、聖書のことばをすべて知っているという意味ではありません。た神の御子が私の身代わりに死んでくださったことにより、聖書のことばが神の愛と、真実さと、力に裏付けられていることを教えられました。また、聖霊が心の内側に住んでくださったことによって、「みことば」を信じ、行いたい思いを与えられました。しかし、それだけでは、信じていない人とあまり変わりません。「語るのに早」ければ、「みことば」や聖霊の思いよりも、自己主張が勝ってしまうからです。だからこそ、「聞くのに早く」ある必要があります。自分の主張よりも、人のことばに耳を傾け、さらに、聖書のことばに耳を傾ける。そうすれば、自分の間違いや、動機の間違いを示され、歪んだ行いにブレーキをかけることができます。そしてそのようにして「心に植えつけられたみことばを素直に受け入れ」るときに、その人の「たましいが救われ」ていきます。思慮の足らなさ、自分の利益を優先してしまう考え方の癖、まちがった思い込み、間違った動機、そのようなものが少しずつ、変えられていきます。そのように「たましいが救われ」ることこそ本当の自由なのです。

4、みことばによる自己吟味が正しい道へ導く

 そのためには、自分の問題をまっすぐに見つめなければなりません。自分のいやな部分、弱い部分、間違った部分もまっすぐに見つめるのです。それはつらい作業でもあります。しかし、そのような醜い部分を持った私を、あなたを愛して、救い主は十字架で身代わりとなり、いのちを捨ててくださったのです。そのような自分も愛されていること知るなら、私たちは、自分の最も醜い部分をも直視できます。そうするときに、聖書によって自分の問題を明らかにされます。そして、聖書のみことばがその問題から救い出してくれることに希望を置けるのです。

5、正しい目標に希望を置く

 ですから聖書は、このヤコブ1:22でみことばを聞いても行おうとしない人の愚かさを伝えています。みことばを聞いても行わない人は、「自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のよう」だと言われます。自分の顔を鏡で見つめる人は、髪の乱れを直したり、自分のシミやしわが気になって、真剣に見つめるかもしれません。しかし、鏡を「離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます」(24節)。なぜなら、鏡を見て自分の欠点には気づけても、それは目標ではないからです。人は、目標やあこがれの方に心を向けるものだからです。みことばを聞いても行わない人は、そのように自分を取り繕うことはできても、自分自身を変えることはできないのです。しかし、「自由をもたらす完全な律法(みことば)を一心に見つめて、それから離れない人」(25節)は違います。その人は、みことばにこそ、自分の内にはない「完全」さがあると信じ、あこがれ、慕う人です。「心に植えつけられたみことば」が自分の「たましいを救」うことを本当に信じているならば、その人は、聖書の「完全な律法を一心に見つめて」、たとえ今までできていなくても、できるようになりたいと追い求めるものです。そして、神はそのような人を聖霊によって助け、みことばによって聖め、成長させてくださるのです。

 ですから、聖書によって自分の吟味し、みことばを行うことをしたい求めて行くところにこそ、神の救いを豊かに味わう道があります。そして、そのようにみことばを行うことをしたい求める時に、自由があります。なぜなら、規則によって人からしばられるのではなく、自分からそうなりたいと求めているからです。そして、そのように求めている人は、この世にとっても慕わしいものなのです(ガラテヤ5:23)。

6、救いを豊かに受ける道を知る知恵

 そして、19節に「このことをわきまえていなさい」と書かれているように、このような視点こそ神の知恵です。この知恵こそが、私たちがこの世にあって、幸いな道を歩める道なのです。どのような誘惑や理不尽な問題が襲ってきても、喜び、希望を持って生きていける道なのです。神はこの知恵を求める者に、必ず与えてくださると約束しています(5~6節)。ですから「聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅く」して、自己吟味すること。そして、そのように汚れた判断をしてしまう自分を救い出す「みことば」に希望を置いて、「みことばを行う」ことを追い求めること。ここにこそ、本当に確かで幸いな道があることを信じていただきたいのです。