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みことばの糧19

信頼できることば

イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じません。」

ヨハネの福音書4:48

 宗教は、しばしば癒やしなどの奇蹟を売りにします。宗教だけではありません。様々な商品やサービスも、特別な効果をうたい文句にしますし、人はそこに惹かれるものです。聖書にもイエスがなされた様々な奇蹟が記されています。しかし、決して奇蹟を売りにしたりはしません。むしろ、奇蹟を見て信じた人のほとんどには、救い主を信じる信仰はなかったのです。冒頭のイエスのことばは、そのようなイスラエル人に対する、嘆きのことばです。

死にかけた息子を助けに行かないイエス

イエスがこの言葉を語られたのは、ガリラヤ地方にいた王室の役人(ガリラヤ地方の国主ヘロデ・アンティパスに仕える役人)が、病気で死にかけている息子を癒やしてくださるように願ったときでした。彼は、エルサレムの祭りでイエスが多くの奇蹟を行い、難しい病でも癒やすのを見ていたようです(45節)。それで死にかけている息子を癒やせるのはこの方だけだと信じて、イエスのところに来て、「主よ。どうか子どもが死なないうちに、下って来てください。」と必死で願いました(49節)。ところが、イエスは彼がこれほど必死で願っているのに「行きなさい。あなたの息子は治ります。」(50節)と言われたのです。「治ります」と訳されてはいますが、聖書のもともとの言葉、ギリシャ語を見ると「あなたの息子は生きています」としか言っていません。早く息子のところに来てくださいとお願いしているのに、あなたの息子は死なないから、息子のところに行きなさいとだけ語られたのです。イエスは、彼の息子のところに行きもしなければ、さわって癒やすこともなさいませんでした。

イエスのことばを信じ、息子の癒やしを見ないまま帰途についた役人

しかし、この役人は、「イエスが語ったことばを信じて、帰って行」行きました。彼は王室の役人という高い地位にある人物でしたから、「私がこれほどお願いしているのに、来てもくれず、『行きなさい』とは何事だ!」と怒って、食い下がってもよさそうなものです。もし、イエスが何もしてくれなければ、今にも死んでしまうかもしれないのです。しかし、彼はそれ以上食い下がることなく、帰途につきました。すると、彼が帰途についている間に、彼の部下が彼のところに来て「彼の息子が治ったことを告げた」(51節)のです。あれほど死にかけていた息子が治った。そこで、息子の熱が引いた時刻を尋ねると部下たちは「昨日の第七の時に熱がひきました」(52節)と言います。その時刻はまさに、イエスが彼に「行きなさい。あなたの息子は治ります(生きている)。」と言われたその時刻でした。電話もない当時、部下たちがイエスの言葉を知っているはずがありません。また、イエスが奇蹟を行うのを見た人はだれもいません。けれども、イエスの言ったことばは正しかったのです。そのことを知った父親は、「彼自身も家の者たちもみな信じた」と聖書は伝えています。「行きなさい。あなたの息子は生きています」とイエスが言われた以上、そのことばを信じて、帰途についたとき、イエスのことばどおり息子は、死なず、生きたのです。高熱で危篤状態にあった息子が癒やされたのです。

 これがイエスを信じるということです。奇蹟を見て信じるのは、聖書の教える信仰ではありません。イエスは、癒やすとも、いつ治るとも、何をしてあげるとも言いませんでした。ただ、「息子は生きている」から、「行きなさい」と言われただけです。そして、役人がその言葉を信じ、帰途についたとき、イエスのことば通り息子は癒やされ、死からいのちに移されたのです。

信じ、従った者だけが見る神の栄光

 このようにイエスのことばは、私たちを救います。誰もが見てわかる派手な奇蹟は、人を救いません。肉体的な病は癒やせても、その人自身の性質を何も変えないのです。しかし、イエスのことばを信じて行動するとき、私たちの予想を超える最善の結果が待っているのです。そればかりではなく、その人はイエスのことばがいかに信頼が置けるかを自分の経験として知り、ますます良い行い、身を結ぶ行いへと導かれていきます。聖書が教えることばは、単なる道徳ではありません。約束をともなう神のことばです。聖書の中には、読む人がこの世になじまないと感じる、非効率で、悪い結果が予想される教えもあります。王室の役人の場合で言うなら、息子が死にかけているのに、ただ帰れと言われたイエスのことばのように、帰ってどうなるかわからない。死んでしまったらどうするんだ。そう思えることも多々あります。しかし、イエスのことばを信じ行動するときに、時間はかかるときもありますが、確かな結果を見ることが出来るのです。「聖書はこう言っています。『この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。』」(ローマ人への手紙10:11)。

 聖書は、この出来事を「第二のしるし」と記しています。「最初のしるし」(2:11、「みことばの糧4」)もまた、見ている人はわからず、イエスのことばに従って水を汲んだしもべだけが知ることのできた奇蹟でした。ぶどう酒が必要なのに、イエスの命令によって水を汲んだしもべが、それを宴会の世話役に持って行った時に、その水が上質なぶどう酒へと変わっていたのです。このように、イエスのことばに従ったときに、神はすべてのことを働かせて、信じる者の益と変えてくださる(ローマ8:28)。それは、信じて従った人だけが経験する神のみわざです。これが、救い主の「しるし」なのです。

 このようなイエスのことば、聖書のことばを信じ、従って行くならばあなたの人生は揺るがないものとなるのです。私自身、確かにその結果を見せていただいています。世の中から古い教えで、窮屈だと思われるかもしれません。しかし、信じて従うときに、本当に折りにかなった助けを経験し、私が期待した以上の人生を経験させてくださっています。そして、このイエスのことばを信じる人もまた、ことばと行いを一致させる生き方を教えられて行くのです。誰にでも見える派手な奇蹟は何も産み出しません。この世の、私たちの目を引く魅力的なものも、一時的な満足を与えても、すぐに廃れていきます。しかし、イエスのことばに信じ、従うという地味な歩みをした人だけが見ることのできる、神の栄光があるのです。是非あなたも、神のみわざを経験してください。