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みことばの糧18

2022年9月25日

誘惑に打ち勝ち、試練を乗り越える神の知恵

すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。

ヤコブの手紙1:17

 誘惑に打ち勝てたら、どんなに自由に、どんなに実を結ぶ生き方ができるだろうか。そのように感じる人は少なくないと思います。聖書の教える試練とは、まさにこの誘惑との戦いです。自分の夢を実現するために誘惑と戦う人も少なくありません。けれども、神がお与えになる試練は、私たちの力以上に私たちを強め、きよめ、力強い実を結ばせてくださる。上よりの報いが約束されている試練だと聖書は教えています。この試練を乗り越える、つまり誘惑に打ち勝つために重要なことを聖書は教えてくれています。

試練と誘惑を混同してはならない

 確かに試練と誘惑はしばしば同時にやってきます。けれども、試練を与える方と誘惑する者は、決して同じではありません。これは、大変重要なことです。聖書は、「だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。」と教えています(13節)。確かに、聖書の言葉に従おうすると、困難にぶつかります。そして、その難しさは多くの場合、物理的な難しさよりも、誘惑によることが多いものです。アダムとエバが、罪を犯したときもそうでした。神がエデンの園に豊かな果実を備えてくださっている中で、たった一本の木、善悪の知識の木の実をたべないことは、まったく難しいことではありませんでした。ところが、「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っている」と誘惑したとき、その木の存在感は、今までに増してぐっと大きくなってしまったのです。たった一本の木から取って食べてはならないという、非常に簡単な試練が、誘惑によって大変難しい試練となってしまったのです。

誘惑する者は私たちをおとしめる

 しかし、だからと言って「神は悪に誘惑されること」は、決してありません。誘惑するのは、「それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるから」(14節)と聖書は言います。悪魔のせいにさえしていません。誘惑は、自分自身にも責任があるのです。そして、「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(15節)と聖書は、警告します。現代はとくに、自分の気持ちを満足させることが人間の幸せかのように思われがちです。確かに、人間には良い欲求もありますので、それさえも否定するような禁欲主義は破壊的で無価値です。しかし、人間には聖書が罪(の性質)と呼ぶ、悪い欲もあります。この欲を満たせば、罪の行為(この世の法律だけでなく、心の中をお調べになる神に対する罪)を産み出してしまいます。そして、この罪の行為が、自分を滅ぼしてしまう。私たちは、このような顕著な例をよくニュースで見聞きしているのではないでしょうか。私たちの前に餌をぶら下げて、釣ろうとするのは、私たち自身の中にある悪い欲です。その欲は、決して良いものを産み出さず、むしろ私たちを苦しめ、滅びへと追いやります。その行き着く所は、永遠の滅びです。だからこそ、私たちは、この欲に従ってはならないのです。むしろ、この悪い欲こそ戦わなければならない相手なのです。

試練を与える方は良きものを産み出す神

 誘惑するのは、私たち自身の悪い欲(罪の性質)であり、この罪は、私たちを幸いにするどころか滅びへと追いやります。けれども、試練をお与えになる神は、まったく違います。聖書は、「すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。」と言います(17節)。神は、私たちを愛し、私たちに最善のものを与えようとして、試練を与えてくださっているのです。しかも神がくださるものは、「完全な賜物」です。人間の考えつくものや、この世が与えるものは、一時的で虚しいものが多いのが現実です。画像などで見た目を良くしたり、「いいね」の数で一喜一憂したりするかもしれません。しかし、多くの場合中身はなく、喜びの裏側につねに不安がつきまとうものではないでしょうか。けれども、神がくださるものは、人の評価や時代の移り変わりに左右されることがありません。「父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。」と聖書は言います(17節)。神のくださるものは、簡単にはさびない金やプラチナ以上の価値を私たちの内に築き上げるのです。さらに、18節では、イエス・キリストを信じた者に対してこのように言っています。「この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。」。神は、キリストによる救いを信じる者を「真理」、つまり裏表や、移り変わりのない「みことばをもって生んで」くださった。私たち自身も、「移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなもの」がないような生き方ができるようにと、内なる人を造り変えてくださったのです。これがイエス・キリストを信じる者に与えられる救いです。

 ですから、この方がお与えになる試練が、私たちに害を与えるはずがありません。私たちに害を与えるのは、誘惑であって、試練ではないのです。誘惑は、私たちに一時的な偽りの満足を与えて、むなしさと滅びをもたらします(ローマ6:23)。しかし、神の試練は、今は苦しみを経験しますが、その苦しみを通して、この世が与えることのできない、自分の力でも生み出すことのできない、不動の価値を私たちの内に産み出してくださるのです。このような知恵こそが信仰であり、私たちが確かな人生を生きていくために、本当に必要な知恵なのです。

誘惑に立ち向かい神の試練を喜ぶ

 だからこそ、私たちは自分の悪い欲求を満足させようとする誘惑を敵として立ち向かうべきです。罪にだまされてはなりません。そして、私たちに幸いと価値を生み出そうとして試練をお与えになる神の愛と力を信じるべきです。その時に、私たちは試練をも喜び、自分に打ち勝ち、永遠の価値をもたらす揺るぎない人生を生きることが出来るのです。神は、私たちを罪から救うために、最愛の御子をさえ十字架にかけてくださいました。それほど私たちを愛してくださった神に信頼してください。神がお与えになるものは試練も含めて、その時は苦しいかもしれませんが、最高の結果へと私たちを導くものなのです。その神に信頼して、聖書の言葉に従うことを求めようではありませんか。一時の満足と引き替えに滅びをもたらす欲にではなく、私たちを愛し、良いもの、完全なものをお与えになる神に従っていくところにこそ、本当の幸いがあるのですから。