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みことばの糧46

期待すべきは環境が変わることではなく自分が変えられること

私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。Ⅰコリント15:49~50

 人はしばしば、問題をまわりの環境のせいにして、自分の問題に目をつぶりがちです。逆に、まじめな人は自分の問題の大きさばかりに目が留まり、耐えきれなくなってしまいます。しかし、本当の解決は、環境のせいにすることでも、自分を責めて行き詰まることでもありません。私たち自身が変えられることです。キリストの救いは、このことを成し遂げてくれます。今すぐということではありません。信じたから完全にされるということでもありません。しかし、やがて神は、信じる者の内にある悪い性質、罪の性質を完全に取り除いてくださいます。天国ではなく、この地上において。これこそが、聖書が教える希望です。

1、血肉のからだは神の国を相続できない

 現代、多くの人は自分が死んだら天国へ行くと、何の根拠もなく信じています。しかし、考えて見てください。今の私たちの性格のまま、もし天国へ行ったとしたらそこは天国と言えるでしょうか。そこでもまた、嘘、策略、差別、憎しみ、妬み、争い等の問題が起きてきてしまいます。そうであれば、そこはもはや天国ではありません。本当に天国が天国となるためには、私たち自身の心の性質が変えられなければならないのです。

 パウロは、「血肉のからだは神の国を相続できない」と言います。実は、このことばは、前述の話しと関係があります。「血肉のからだ」は、「朽ちるべきもの」「死ぬべきもの」(53節)なので「神の国を相続できない」と言っているので、単なる寿命に限りがあるかどうかに見えてしまいます。しかし、文脈をしっかり読むと、パウロは単なる肉体の寿命の話しをしているのではないことがわかります。56節でパウロは「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」と言っております。これは人が「死」ぬのは、神の「律法」に違反しているからという意味です。多くの人は、聖書に記された神の「律法」を知りません。しかし、この世の法律でもそうですが、知らないから破っても済まされるということはありません。それと同じように、神の律法を知らずに破っても、必ずその報いを受けなければならない。それが「死」なのです。人が死ぬのは、人が罪を神の「律法」に違反し、罪を犯した証拠でもあるのです(ローマ5:12~14、参考Ⅰヨハネ3:4)。

 しかし、神の「律法」を知ったからと言って、「律法」を守れる訳ではありません。それは、イスラエルの歴史が示す通りです。すべての人間には、神の「律法」に反したことを欲してしまう罪の性質がある。この性質がある以上、必ず「律法」を犯してしまう。だから人は「死」ななければならない。そのような「からだ」(聖書の言う身体は、心や精神も含む)では、「神の国を相続できない」。つまり、私たちの「からだ」から罪の性質が取り除かれない限り、本当の解決は来ない。それが聖書の教える事実なのです。

2、死をもたらす原因は私たちの内にある

 そのように人間は、すべて罪の性質を持って生まれて来ます。この事実を、パウロは「最初の人アダム」(45節)、「土で造られた人」(47~48節)に似ているという事実をもって教えています(45節)。「最初の人アダム」は、「生きるものとなった」と聖書は教えています(創世記2:7)。それは、単に肉体的にいのちを持っただけでなく、神の霊を吹き入れられ、神の「かたち」、つまり神の様々なご性質に似たものとなったからです。その思うこと、考えることが、すべて良い、喜ばしいものとなる。そのような性質を持った時に、人は「生きるものとなった」のです。人間は、肉体や心があれば生きていると言えるわけではありません。人間らしい、神に似た性質を持ってはじめて「生きるもの」と言えるのです。

 しかし、この「いのち」は、アダムが神の命令に違反し、罪を犯したときに死んでしまいました。「神のかたち」を完全に失ったわけではありません。人間には、良心がありますし、良くなろうという思いがあります。しかし、その思いさえ常に歪み、神の「律法」に逆らい、真実を曲げてしまう。そのようにアダムが罪を犯した結果、人間に罪の性質が入り、神の「律法」に反する思いを抱く性質を持つようになってしまったのです。そして、その結果「死」ぬものとなってしまった。この問題に勝利しなければならないのです。

3、死の原因である罪の性質に勝利を与えるキリスト

 そこで神が遣わしてくださったのは、「最後のアダム」(45節)たるイエス・キリストです。このイエスは、罪の誘惑にまけた「最初のアダム」とは異なり、あらゆる罪の誘惑に打ち勝ち(マタイ4:1~11、ヘブル4:15)、神と人を愛し、完全な人生を走り通されました(ピリピ2:8、ヘブル12:2)。そして、信じる者すべての身代わりとなって罪を背負い、罪の刑罰を取り除かれました。しかし、それだけでは私たちの心に罪の性質が残り、「死」が残ってしまう問題が解決できません。そこでキリストは、ご自分がよみがえられたように、信じる者も罪の性質がまったくないキリストの似た者としてよみがえる道を開いてくださったのです。45節で「最後のアダムはいのちを与える御霊とな」ったと言っているのは、そのことです。イエス・キリストを信じるならば、再臨の時「私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです」(49節)。そうなれば、「死」は何の力も持ちません。心から神の「律法」を喜び、「律法」に縛られず、「律法」が要求する以上のことが自由にできるようになるからです。イエス・キリストが地上で歩まれたように。その時こそ「死は勝利に呑み込まれた。」「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」という言葉が実現します(54~55節)。

 しかも、この出来事は、多くの人が考えるいわゆる天国のような、この世離れしたところで起きることではありません。この地上で起きることです。聖書の教える「神の国」とは、あの世の国ではありません。天であっても地上であっても、神によって治められ、神の秩序のもとに愛と公義といのちに満ちあふれた世界、それが「神の国」です(参考ルカ17:21)。それは、私たち自身が「天に属する方のかたち」に変えられ、罪のない完全な性質に変えられてはじめて、完全な価値で地上に実現するものです。

4、この勝利に希望を置くことが今の人生を生きたものにする

 私たちは、このような「神の国」を求めなければなりません。そして、神はキリストを信じる者を、そのような「御霊のからだ」によみがえらせることによって「神の国を相続」させ、この地上で完全に実現してくださるのです。そこに希望を置くとき、私たちの今の生き方も聖められ、揺るがないものにされていきます。最終的にその「神の国」に残るもの以外は、すべて空しいものだとわかるからです。私たちは、この空しい望みに振り回されて、しばしば右往左往し、一喜一憂し、人間関係を歪めてしまします。しかし、本当に希望を置くべきところを間違わず、最終的にその「神の国」に残るもののために労苦するなら、たとえ今は無駄骨折りに見えても、理不尽な苦しみを受けても、無駄な労苦になることは決してありません。この確信が、私たちの今の生き方を力強く、確かなものにしてくれるのです。どのような逆境でも、言い訳せず、失望せず、恨みや妬み、自己中心的な思いに囚われない、喜びと生きがいに満ちた生き方をさせてくれるのです。

 イエス・キリストを信じた者には、聖霊が住み神のみこころにかなう「いのち」の思いと、神のみこころに逆らう「死」の思いが混在しています(ローマ8:1~11)。このように「いのち」の思いが与えられていること自体が、大きな救いです(ローマ8:11)。それと同時に、やがてこの「死」から解放されて、完全に「御霊のからだ」によみがえらせていただけることが、最終的な救いの完成であり、希望です。ここに希望を置くとき、私たちはたとえ環境が最悪でも、自分の内に様々な弱さを抱えていても、変えられない過去を抱えていても、勝利ある生き方が出来るのです(参考Ⅰヨハネ3:2~3)。ぜひ、この希望があることを知っていただきたいのです。そして、この聖書の約束に希望を置いて、言い訳することなく、置かれた環境や自分に失望することなく、今を生きて行こうではありませんか。