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みことばの糧45

2023年5月23日

救いがもたらすよみがえりのからだ ~このよみがえりのからだへの約束が自分の弱さや世の不条理に打ち勝つ希望となる~

卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。Ⅰコリント15:43~44

 私たちは、しばしば今の自分、今の環境を基準とします。今の自分にはできそうにもないこと、今の世の中では、できそうにもないこと。そのようなことはしなくてもよいし、しなければならないという命令は間違っている。しばしば、そのような結論を出してしまいます。実際に、そのように考えなければ、自分を追い詰めてしまいますし、どうしようもなく自分を否定しなければならなくなってしまいます。しかし、そのように自分の状態や環境を基準としてしまうことが、様々な問題を招いていることも事実です。社会や国・地域が問題を抱えていても、その問題に妥協的になり、あるいは言い訳して、自己正当化してしまいがちになります。また、自分ができていることをしない人には批判的になり、自分が出来ていないことを指摘されると、その指摘自体が悪いかのように言ってしまう。まさに、自己中心的な生き方を生み出してしまうのです。

 このような問題に対して、キリストの救いは、大きな解決を私たちに与えてくれます。その解決の一つが、冒頭のみことばにあるよみがえりの約束です。この言葉は、聖書を知らない方にとっては、荒唐無稽に思えるかもしれません。しかし、この約束こそが、私たちをこの世の問題、自分の悪い性質に打ち勝たせる神の解決です。この約束によって、自分が今どれほど弱くとも、どんな過去を背負っていても、また自分を取り巻く環境がどれ程悪くとも、言い訳せず、誠実に、また自分の弱さや罪の性質に打ち勝つ生き方へと、私たちを強め、導いてくれるのです。

1、よみがえりのからだは今のからだと異なる

 冒頭で触れたように、私たちは今置かれている環境や、今の自分の状態(性格、今まで育った環境、精神的・肉体的特徴、くせなど)に大きく影響されて生きています。それらは、よい影響も与えますが、悪い影響も与えます。そして、環境や自分の状態自体が、自分に悪い影響を与えている場合、そこに打ち勝つ事はほとんど不可能のように思えます。それどころか、あまりになじみすぎていて、問題であること、どこに問題があるかにさえ気づかないこともほとんどです。しかし、聖書は、イエス・キリストを救い主と信じた者に、素晴らしい約束を与えてくれています。「卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」(Ⅰコリント15:43~44)。今の自分は確かに弱いかも知れない。様々な悪い性質(聖書が教える罪の性質)を抱えているかもしれない。さらに肉体的、精神的な欠点も抱えている。けれども、最終的に神がそれらの欠点を持たないからだへとよみがえらせてくださる。そのからだを基準に今を考えるならば、私たちは今の自分の弱さに打ち勝つ希望が与えられます。たとえ、その希望が今の自分を否定したとしても、最終的に、今の自分のままではないからです。今の自分がどれほど罪深く、弱く、間違いを抱えていることを認めても、そのことで自分が駄目になることはありません。なぜならば、最終的には、その問題は解決され、まったく欠点のない者にしていただけるからです。だからこそ、私たちは、どれだけ欠点を責められても、間違いを指摘されても、まっすぐに向き合って行けば良いのです。その取り組みは、やがて必ず報いを受けるからです。そして、必ず目標にたどり着けるからです。

2、異なるからだが存在するという証しは豊かにある

 このような希望を持てるのは、神がくださるよみがえりの「からだ」は、今のからだとまったく異質のものだからです。この聖書の教えは、荒唐無稽に思えるかも知れません。それは、このコリント人への手紙が書かれた当時の人にとっても同じでした。そのように理解不能と考える人たちに、パウロは自然界からいくつかの例を取り上げて示します。

 まずは、穀物と種の関係です。麦や米等の穀物は、種を蒔いて育てます。しかし、その種と種から出てくる植物体とは、まったく見た目も違いますし、機能も異なります(37節)。種は堅い殻に包まれ、光合成することも出来ませんし、葉も茎も根もありません。種の内側にその原型を内包してはいますが。そして、種は蒔いて、水やりをするまでは、その姿のままです。ところが、種が地に蒔かれ、水分を得るならば、その姿は一変します。種の姿からは想像も出来ない緑色の葉と茎を伸ばし、根を張り成長します。大きさも、種とは比べものにならない大きさにまで成長し、数多くの実を結ぶのです。今生かされている私たちのからだもまた、この種と同じようなものだと聖書は言います。「卑しいもので蒔かれ…、弱いもので蒔かれ…、血肉のからだで蒔かれ」ています。勿論、そのいのちも身体も大切なものです。しかし、そのからだだけにとらわれて、今のからだや、心、業績などがどれだけ素晴らしいか,劣っているかを人と比べてもあまり意味がありません。なぜなら、やがて与えられる「からだ」の栄光、強さと比べれば、比べものにならないからです。みにくいあひるの子ではないですが、たとえ今の人生が報いを得られず、輝きを感じられないまま終わったとしても、種として最も良い地にまかれ、やがて芽が出る時のための備えができるならば、それは決してつまらない人生ではありません。むしろ、最高の人生とさえ言えます。そのように今の人生をとらえるとき、私たちはどのような状況に置かれても、どのような弱さを抱えていても失望する必要はありませんし、なすべきことを見失わずにすみます。そのようによみがえりのからだに希望を置く生き方こそ、今の人生を最も輝かせる生き方となっていくのです。

 自動車の運転でも、あまり近い目標ばかり見ていると、まっすぐに走れないと言われます。ある程度遠くを見ながらハンドル操作をした方が、安定して、なめらかな運転ができます。目的地への道を選ぶときも、多少遠回りしても、最終的に目的にたどり着けることが重要です。その目的地が、このよみがえりなのです。このよみがえりを目標と見据える時に、今の人生の舵取りが正しく、安定してできるようになるのです。そして、この目的地は、イエス・キリストを救い主と信じる者には、誰にでも等しく約束されているのです(58節)。

 このように新しいからだによみがえらせていただけるという約束は、非常に荒唐無稽に見えますが、神は私たちに様々な実例を示してくださっています。先ほどの種と植物体の例もそうです(37節)。もう一つの例として、聖書は、同じ肉でも「人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉、それぞれ違」うという例も挙げています。確かに、どれも「肉」ですが、それぞれに特徴が異なります。聖書には、書かれていませんが、芋虫、さなぎ、蝶の変化は、もっとわかりやすい例ではないかと思います。芋虫と蝶では、見た目も違いますし、内臓のつくりもまったく異なります。それでも、芋虫と蝶は、まったく別の生き物になったわけではありません。もし、A君という芋虫が蝶になったとしても、蝶はB君になったわけではなく、やはりA君のままです。それと同じように、よみがえりのからだは、今の私たちとは大きく性質を異にしますが、それでも私たち自身であることに変わりはありません。そして、今の生き方がよみがえらせられた後の私にとっても重要になってきます。よみがえる前も、よみがえった後も同じ私の人生だからです。神は、様々な自然の生き物を通しても、このよみがえりがあることを私たちに示してくださっています。

 なによりイエス・キリストのよみがえり自体、やはりよみがえる前の肉体とは、性質が異なっていたことを聖書は伝えています。よみがえられたイエスの肉体は、「焼いた魚」を食すという通常の肉体的特徴を持ちつつ(ルカ24:42~43)、鍵のかかった部屋の中にも入って来られ(ヨハネ20:19等)、肉体を持ちながら天に上られる(使徒1:9)といったように物理法則を超越した特徴も持っていました。それは、私たちがよみがえらせていただける時も、「天に属する方のかたちも持つ」ことを示すためだったのでしょう(49節)。

 このように聖書の教える「よみがえり」は、ある点で物理現象を超越していて荒唐無稽に見えます。しかし、自然を通して、またキリストのよみがえりを通して、目に見える形で示された事実でもあるのです。なにより、このキリストの復活を信じたパウロ始め、多くの信仰の先輩者たちが、過去の罪ある生き方を捨て、いのちがけで神と隣人を愛し、仕えていく者とされた姿に、その証を見ることができます。

3、よみがえりへのからだへの信仰が今の私の人生を聖める

 このように聖書は、よみがりのからだに希望を置くように伝えている事実に目を向ける必要があります。と言いますのは、多くの人は、自分の死後の人生に目を留めないからです。クリスチャンでもしばしば、イエス・キリストを信じれば、天国へ行けると信じ、それを伝えることが福音を伝えることと考えます。決してそのこと自体を否定するわけではありません。ヨハネ14:1~3、Ⅱコリント5:8等、天国への希望を伝えていると考えられる箇所が確かにあります。しかし、同じⅡコリント5章10節を見ても、聖書が伝える最終的な目標は、キリストの再臨とよみがえりです。聖書の圧倒的多くの箇所は、この再臨とよみがえりに希望を置くように伝えています(ローマ8:28、エペソ1:10、ピリピ3:20, 21、Ⅰテサロニケ1:10、4:13~18、Ⅱテサロニケ1:7、Ⅰテモテ6:14、Ⅱテモテ4:8、テトス2:13、ヤコブ5:7、Ⅰペテロ5:7、Ⅱペテロ3章、Ⅰヨハネ3:2、黙示録21章以降等)。天国は、決してゴールではありません。

 天国へのみ希望を置くと、人はしばしばこの世と神の国を切り離して考えがちになります。しかし、聖書が教える再臨とよみがえりに希望を置く人は、自分の肉体が死んだ後も、この地上の世界に責任を持ち、希望を持ちます。とくにこのⅠコリント15章では、罪からの救いとの関係でそのことを教えています。パウロは17節で「死者がよみがえらないとしたら…あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます」と言いました。今の社会がすべてだと思えば、その社会の持つ悪い面からの影響を逃れられません。そして、今のからだ(今までの箇所を見てもわかるように聖書の言う「からだ」は、心、精神、たましいを含む)がすべてだと思えば、自分の罪の性質、弱さ、汚れに打ち勝つ事が出来ません。けれども、やがて罪の性質から完全に解放され、「天に属する方のかたち」つまり、神の御子、キリストに似たからだと心に変えられるという希望を持つならば、私たちは今の自分の弱さという限界に閉じ込められたりしないのです。どれだけ失敗しても、どれだけ間違いを抱えていたとしても、このゴール目指して生きて行くとき、必ず私たちは聖められ、強くされ、揺るがない生き方、永遠の実を結ぶ生き方へと変えられていくのです(参考Ⅰヨハネ3:2~3)。そして今の社会に縛られる事なく、それでいて社会に対しても言い訳することなく誠実に責任を果たしていく者とされていきます。キリストに似た者、御霊のからだによみがえらせていただける。この希望こそ、私たちを罪から救い、この世の力、また自分の弱さに打ち勝つ勝利を与えてくれるのです。このよみがえりがあることを知っていただき、このよみがえりに希望を置いていただきたいのです。