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みことばの糧13

生きる意味を満たす糧

イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」

ヨハネの福音書4:34

 人間は、食べて飲んで、肉体の生命を維持するためだけに存在しているのでしょうか。動物でさえ、自然界で様々な役割を果たしながら生きています。まして人間には、それ以上の意味と価値があります。ですから、人が生きていく為に必要な糧は、口から入る食事だけではありません。人生の意味を満たす、いのちの糧があるのです。その「糧」の必要性に気づいておられる方も決して少なくありません。多くの場合それは、「やりがい」であったり、家族を得ることであったりします。サマリアの女もそれを求めていましたが、求めるものは逃げて行くばかりでした(18節)。また、世の中の役に立つことを求めます。これもとても重要なことであり、すばらしいことです。しかし、世の中の価値観はめまぐるしく変わり、また自分がしたいことと、自分に求められる役割とのギャップに悩み、戸惑うことが少なくありません。けれども、人間には、その人にだけ与えられた役割があり、その使命を果たす機会まで備えられている。聖書は、そのことを私たちに教えています。イエスが「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります」と言われた(32節)事実の中にこそ、あなたがこの地上に生を受け、今その場所で、そのからだで生かされている意味と価値を満たす糧があるのです。

食べるものを持たないイエスが持っておられた糧

 この4章の前半においてイエスは、ご自分が疲れ果て(6節)、渇いた状態で(7節)、サマリア人の女に「生ける水」「永遠のいのちへの水」をお与えになりました(10、14節)。その水は、女の求めていたものと異なり、女はその価値を知りませんでした。しかし、イエスからこの水をいただいた時、彼女は、今まで恐れていた人前に、喜んで出ていく力と喜びと行動力に満ちる者へと変えられたのです(28~29節、参考「みことばの糧9」)。まさに、彼女のいのちが必要としていた水は、イエスの持っておられる「いのちの水」だったのです。そして、まだ食事を摂っていなかったイエスご自身も弟子たちにこう言われました。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」(32節)。その言葉を聞いた弟子たちは、「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」と戸惑いました(33節)。「汲むもの」を持っていないイエスを力のない弱い者としか見ず、何の期待もしなかったかつてのサマリアの女と同様でした(11節)。しかし、疲れ果て、空腹であったイエスご自身が、肉体の糧以上にご自分を満たす糧を持っておられたのです。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」(34節)。これこそ、イエスが持っておられた「食べ物」でした。イエスは、疲れと空腹で動けない間にも、サマリアの女を導き、「いのちの水」をお与えになりました。まさに、イエスはこのために地上に遣わされたのであり、このために父なる神は、イエスにサマリアを通らせたのです。たとえ、疲れ果て、空腹で動けずとも、自分が地上にお生まれになった本来の使命を果たせるならば、そして一人の女性が、そのことによって「永遠のいのち」を得られるならば、イエスが地上に生まれた意味は十二分に満たされる。これこそ、イエスが持っておられた「食べ物」だったのです。イエスが行うために父なる神がイエスにお与えになったわざを成し遂げること、これこそ、人間が地上で生きる意味を真に満たすいのちの糧だったのです。サマリア人の女に本当に必要だったが「いのちの水」であったのと同様に、イエスご自身もまた、このいのちの糧を、最も必要としておられたのです。そして、持っておられたのです。

 イエスが、このように言われたのは、サマリア人の女にいのちの水をお与えになったように、弟子たちにもこの糧を得て欲しいからでした。そして、現代に生きる私たちのためでもあります。私たちもまた、父なる神が一人一人になっている「みこころ」、神にわざがあります(参考エペソ2:10)。私たちは、神のかけがえのないわざを成し遂げるために、この地上に生を受けた。そして、キリストが私たちの罪のために身代わりとなられたのも、そのためでもあるのです。今も多くの人は、自分の生きる意味を神に求めません。けれども私たちが、本当に求めるべきものは、生活の安全、安定、感情の満たし以上に、神の「みこころを成し遂げること」なのです。物質的なものを何も持っていないイエスが一人の女性の人生を変え、いのちに導かれたように、私たちにもすばらしい役割が与えられているのです。

いのちの糧は常に目の前にある

 では、その役割はどこにあるのでしょうか。その役割を果たすために必要な条件は何なのでしょうか。その問いに対して聖書は、その機会は、私たちが思う以上に身近なところにあると教えています。イエスは、弟子たちにこう言われました。「『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(35節)。『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』というのは、「まだ条件が整っていない」「私の出番はまだだ」という弟子たちの心の表れです。しかし、弟子たちが、まったく条件が整っていない、自分の役割を果たせる機会もないと思っているその時に、すでに「刈り入れ」の時は来ているとイエスは言われるのです。イエスが、このサマリアの女性を導かれたのも、まさに弟子たちが「刈り入れの時はまだだ」と思わざるを得ない、そのときだったのです。イエスが女性を導かれたとき、イエスは水にも食事にも乏しく、肉体的にも疲れ果て弱っておられる時でした。イエスの味方をする弟子たちもいなかったのです。さらに場所においても、サマリア人の地であり、サマリア人の井戸です。まったく他人の土俵の上にありました。人間から見れば、最も条件が悪い時、場所、状態でした。しかし、そのときに父なる神の御心を行う、最適の機会がそこにあったのです。なぜならば、神ご自身が私たちのために役割と機会を備え、そのために私たちをつくってくださったからです。私たちの能力や条件によって、この機会が失われることは決してありません(出エジプト4:11)。

目の前にあるいのちの糧に手を伸ばして生きる

 ですから、自分にとって体調的にも、物理的にも、タイミング的にも、自分の能力においても最悪の条件だと思える時でさえ、あなたの価値を満たす機会は、あなたの目の前にあるのです。あなたのいのちの糧は目の前にあるのです。大切なことは神がそのために私をつくり、生を与え、生かし、今の環境に置かれていると信じることです。そして、自分の願いではなく、聖書が教える神の御心にかなうことを求めることです。そのように神に立ち返るならば、あなたはこの糧に飢えることはありません。神はあなたによって隣人を生かし、互いに喜び合う、そのような役割と機会を備えておられるのです。そのときは、目の前にあるのです。

 私自身も常にこのように信じられているわけではありません。しかし、これが聖書の約束です。救い主の約束です。この聖書の約束を信じようではありませんか。