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みことばの糧12

2022年8月14日

あらゆる祈りと願いによって ~神の武具を機能させる力~

あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。                          

エペソ人への手紙6:18

                           

祈りはすべての神の武具を機能させるために必要

 これまで神の大能の力(10節)とその力の現れである神の武具(13節)について見て来ました。私たちの戦いは、神に従って良い行いに生きる(2:10、6:13)、つまり御言葉(とくに4:25以降の行い)に従うのを妨げる暗闇の力(6:12)との戦いです。その戦いを勝利するために、つまり「一切を成し遂げて堅く立つ」(13節)ために必要な武具は、「真理の帯」、「正義の胸当て」、「平和の福音の備え」、「信仰の盾」、「救いのかぶと」そして「御霊の剣すなわち神のことば」でした。。しかし、これらの神の武具を有効に働かせ、私たち自身が良い戦いをするためになくてはならないことがまだあります。それが18節の「祈り」です。

 この「祈り」は、原文では14~17節のすべてにかかっています。つまり、神の武具は祈りなしには身につける事も、用いることもできないとうことです。

例外を設けない祈り

 この祈りについて、パウロは「あらゆる祈りと願いによって」と言います。つまり、この祈りにおいて偏ったり、例外を設けてはならないということです。願いだけでなく、感謝、讃美、悔い改め、執り成し、すべてにおいて祈るべきです。さらに、自分が少し頑張ればかないそうな、ちょっと条件が整えられればかないそうな祈りに限定すべきでもありません。まったく不可能に思えても、神が求めておられることであるならば、私たちは大胆に祈るべきです。

すべての聖徒のために祈る

 例外を設けない祈りとしてまず、「すべての聖徒のため」とパウロは言います。気の合う人、仲の良い人に限定すべきではありません。キリストを救い主と信じ、とくに同じ教会に集う一人一人のために例外なく、差別なく祈るべきなのです。そのためにパウロは「どんなときにも御霊によって祈りなさい」と勧めます(18節)。「御霊によって祈」るとは、聖霊なる神の思いに立って、個人的な視点だけでなく、神ご自身がどのように見ておられるかを覚えながら祈る祈りです。自分自身の思いだけで考えれば、私と気の合う人、私を理解してくれる人、私によくしてくれる人、私にとって大切な人ばかりが頭に浮かび、その人のためだけに祈りがちです。しかし、御霊の視点に立つならば、違った世界が見えて来ます。すべての聖徒は、自分の好みにかかわらず同じ神が召し出された、神にとって大切な一人一人です(4:1)。そして同じ「御霊」によって一つにされ者です(4:3)。その神は、聖徒一人一人のために救いの道を開き、役割を備え、導いてくださっています。そしてその一人一人を組み合わせ、建て上げ、成長させようと願っておられます(4:15~16)。そうであるならば私たちも、すべての聖徒のために祈るべきなのです。とくに自分にとって苦手な人、関わりが少ないように思う人のために祈るべきです」。それでパウロは、「目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい」と言ったのでしょう(18節)。自分が祈りやすい祈りをするだけでは、「御霊」による祈りにはならないからです。私たちは、「目を覚ましていて」すべての聖徒のために「忍耐の限りを尽くして祈」るべきなのです。そのように祈るときに、「悪魔の策略」に陥ることなく、神の武具の力を発揮させることができるのです。どれほど、正しい教理を持っていようと、この祈りを大切にしないならば、その時点で「悪魔の策略」に無防備になっているのです。

環境のせいにしない祈り

 それと同時に、「御霊」による祈りは、環境のせいにし、環境が変わることだけを願う祈りではありません。人のせいにし、人を恨む祈りでもありません。パウロは、ローマによって捕らえられ、苦しめられ、行動を制限されていても、ローマが苦しむようにという祈りはしません。それどころか、釈放されるように祈るように要請もしていません。釈放されるようにという祈りが御心にかなわないわけではありません(参考:使徒12:12)。しかし、パウロは釈放されるよりむしろ、こう祈ってくださいとエペソ教会に要請します。「鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください」(20節)。環境が良くなるようにではなく、最悪の環境のなかでもなすべきことができるように祈って欲しいと要請したのです。今で言えば、コロナ禍が終息するために祈るのにまして、コロナ禍でも充分な働きができるように祈ることでもあるのではないでしょうか。神のご計画も働きも、環境によって妨げられることはありません。投獄されていても、最悪な環境におかれても、神はそこでもご自分の働きを前進させることができるお方です。そうであるならば、私たちはどのような環境においても、環境が変えられるように祈りつつも、環境が変わらなくとも神のご計画は成ることを信じ、そのなかで最善を尽くせるように祈るべきなのです。

互いに祈りあう

 そして、このようにパウロでさえも祈りの要請をしています。当時の地中海沿岸で力ある宣教をなしとげたパウロでさえ、祈りの要請をしました。それは、この働きが自分の力ではなく、神の力によることを自覚していたからです。そして、数名の特別な人が賞賛されるのではなく、互いに祈り合うところに神の力が現されることをパウロはよく承知していたからです(マタイ18:19)。同じように互いに祈り合うべきなのです。当時のローマ兵も、数名の特別な人物によって勝利したのではなく、それぞれの隊が隊列を整え、指揮官の指示のものと力を合わせたからこそ強力な力を発揮しました。私たちも、一人一人の力を比べるのではなく、あらゆる環境にあっても御心を成し遂げる神の力に信頼して、互いのために祈り合うときに、神はご自分の力を現してくださるのです。そして、この祈りを通して、私たちは神のみわざ、神の戦いに参加させていただけます。私たち一人一人の意志、願い、祈りを用いてご自分の働きを実現してくさるのです。

 このように御霊によって互いに祈り合うときそのときに、神の武具は最大の力を発揮し、あらゆる困難に打ち勝つ力を与えてくださるのです。イエス・キリストを救い主と信じるならば、神は大能の力を私たちに与え、神の武具を与えてくださっています。私たちは、それを自分のものとして受け取り、適切に使用することが大切です。そして、「あらゆる祈りと願いによって」、「すべての聖徒のために」「忍耐をつくし」互いに祈り合うならば、私たちは強いのです。

 たとえ、最も不利な状況におかれてもなお、神のみわざが前進するのを見ることができます。ここにこそ、救いがあり、幸いがあり、平和があり、成長があるのです。神は、すばらしい祈りを与えてくださっています。例外を設けず、「あらゆる祈りと願いによって」、力を尽くして自分のなすべきことに専念し、力を合わせて行こうではありませんか。