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みことばの糧34

2023年2月4日

神を信じるとは ~人からではなく心をお調べになる神からの栄誉を求める~

互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたが、どうして信じることができるでしょうか。

ヨハネの福音書5:44

 あなたは、人やものの価値をはかる基準と根拠をどこに置いているでしょうか。実は、このことと神を信じるかどうかは、深く結びついています。神がおられないとするならば、人の価値基準は、身近な人の評価や、評価する人の数に大きな影響を受けるからです。まことの神を基準とする人は、その影響に囚われず、常に本質を見極める目を持とうとします。しかし、それは神の信じ方によります。多くの宗教は(キリスト教もしばしば例外ではなく)神を信じると言いながらも、人の評価に多大な影響を受けているからです。イエス・キリストが地上に来られた二千年前のユダヤ人もそうでした。彼らは、聖書を信じ、救い主を待望していました。それにも関わらず、多くのユダヤ人は、神が遣わされた救い主を喜ぶことも、その方に求めることも、そして信じることもありませんでした。それは、ユダヤ人が聖書を読まなかったからでも、信仰心が足らなかったからでもありません。「互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求めない」ことこそが、原因だったのです。

 このイエスのことばは、今もすべての人の心を探ります。多くの宗教の問題は、神がおられないからではなく、人間が神を信じると言いつつ、「互いの」評価が神の座を占めるからなのです。この箇所の聖書の言葉は、神を信じていない人も、神を信じているつもりの人も、その心の内を鋭く探る言葉です。ネットにおいても普段の人間関係においても、政治においても、学問においても「互いの間で」「栄誉を受け」ることに囚われることが、いかに多くの偽りを生み出し、人を欺いているかを私たちは心に留めなければなりません。そして、イエスご自身が何を語られたかに、是非耳を傾けて頂きたいのです。

1、ユダヤ人たちが救い主を信じられなかった原因

 聖書は驚くべき事に、旧約聖書も新約聖書もイスラエル人、ユダヤ人の抱えていた多くの間違い、問題を赤裸々に記します。イスラエルから出た正典が、イスラエル自身の恥をこれほど赤裸々に記すことは、大きな驚きです。しかし、それはユダヤ人が他の人よりも、不真面目だとか、信仰心が足らないとかいうことではありません。むしろ、イエスご自身「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています」と言っております(39節)。彼ら自身、だれより聖書の神を信じているつもりでしたし、「聖書を調べて」いましたし、ローマの圧政の中でも精一杯生きようとしていたことをイエスご自身が証言しておられるのです。

 しかし、彼らには、救い主を受け入れられない致命的な原因がありました。「互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求め」ない。これこそが、ユダヤ人たちが救い主を信じられない、決定的な原因でした。そして、聖書が教える本質を悟れない、聖書を信じつつも、聖書が教える道とはまったく異なる方向へ行ってしまう原因だったのです。 

2、自分の願望や世が承認する人は受け入れる

 このように「互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求め」ない現実について、イエスは、43節で目の前で起きている事実に当てはめて語ります。「わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません。もしほかの人がその人自身の名で来れば、あなたがたはその人を受け入れます」「名」というのは、当時のイスラエルにおいて立場や権威を表しました。つまり「その人自身の名」というのは、当時の社会における肩書きです。所属しているグループ・団体や、そこでの地位、世の中の支持者や、その数。それらを自分の権威づけとして掲げるならば、その人は受け入れられました。実際、第一次ユダヤ戦争を率いたガリラヤのメナヘムは、シカリ派という反ローマ体制派の支持を集め、改革者として大きな影響を及ぼしました。このような人物は、反体制派の人たちにとっては、「救い主」として受け入れ易かったのです。また、第二次ユダヤ戦争を率いたバル・コクバは、さらに大勢の人の支持を得ました。エルサレムがローマの手に陥落して以降、エルサレムをローマの手から奪い返すために行動したからです。彼の行動は、まさにユダヤ人の願いを叶える行動でありました。そしてそのような彼に対し、当時イスラエルの宗教的最高権威者であったラビ・アキバから救い主の称号を得たのです。「バル・コクバ」という名前自体が、民数記24章17節に預言されている救い主の預言の成就という意味がありました。このような人物に対しては、大勢の人が救い主として受け入れ、熱狂的に支持したのです。それは、彼らの願望を代表し、社会的権威者が彼を賞賛したからです。多くの人は、「互いの間では栄誉を受け」るのです。

3、人からの栄誉を徹底的に受けられなかったイエス

 しかし、イエスを神から遣わされた方と信じ、その方を求めた人はわずかでした。それは、イエスが聖書の言葉に従わなかったからではなく、「人からの栄誉は受け」なかったからです(41節)。イエスは、どの派閥にも所属せず、承認を得ようとすることもありませんでした。6:15で民衆がイエスを王として担ぎ上げようとした時も、イエスは拒否されました。メナヘムやバル・コクバはこのような民衆の評価を追い風にしましたが、イエスはそのような「人のからの栄誉」を徹底的に退けられたのです。

 しかし、だからといってイエスが聖書の言葉に従わなかったわけでも、社会的に逸脱していたわけでもありません。むしろマルコ7章は、この点についてイエスの性質をよく伝えています。当時、「父と母を敬え」という十戒の言葉は、両親への経済的支援(仕送りのような)も含むものと理解されていました。しかし、当時の宗教的指導者たちは、「もし人が、父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は、コルバン(すなわち、ささげ物)です、と言うなら──」、この両親への義務を免除してしまっていたのです。つまり、神殿等への献げものをしているのだから、神のために献げているので、家族のために使えなくてもかまわないと解釈したのです。ところが、イエスは、このような解釈こそ、「神のことばを無にしてい」る(7:13)と鋭く指摘されたのです。現代のカルトも、まさにこの点で間違っています。ときに熱心なクリスチャンも、この点を勘違いしてしまいます。聖書を正しく読むならば、神ご自身が隣人を愛し、家族に仕えるよう命じられています。神に仕えることと、家族を大切にすることは一体なのです。勿論、時に家族の意見よりも優先させなければならない事柄もあります。しかし、聖書の言葉はえり好みせず、全体を誠実に見渡すならば、そこにはどの時代にも通じる神の教えと、本来あるべき社会性とが見事に調和しているのを見ることが出来ます。イエスこそ、彼らが信じていたモーセの律法を体現する方でした(46節)。イエスは、この世の人間の評価は受けませんでしたが、まさにイエスこそ、聖書本来の意味を誠実に、正確に、愛を持って実行される方だったのです。

 それにも関わらず、多くのユダヤ人たちはイエスが救い主かどうか、真剣に探ったり、イエスに答えを求めて来ようとはしませんでした(40節)。ここにこそ、彼らが本当に愛していたのは神ではなく(42節)、人からの「栄誉」であり、承認であったという事実が如実に表れていたのです(44節)。彼らは神を信じ、神を愛し、聖書を信じていると自認していました。しかし、彼らが信じ、愛していたのは、神でも聖書でもなく、互いの栄誉であり、互いの顔色を窺うことでしかなかったのです。

 今も多くの人は、「互いの間では栄誉を受けても、唯一の神からの栄誉を求め」ません。しかし、人からの栄誉を受けず、ただ聖書によってのみ証しされる方を信じるならば、その人こそ、本当に神を信じる人です。キリスト教を信じていたり、イエスを救い主として信じていても、その根拠が人の評価や、自分の願望にかかってるならば、厳密には神を信じているとは言えない可能性が高いです。その根拠が神ではなく、人の栄誉にかかっているからです。人からの栄誉ではなく、神からの栄誉を求めてイエスを信じる信仰こそが、本当に神を信じる信仰なのです。その信仰こそが、私たちを世の歪曲から救い、真実な道、永遠のいのちの道を歩ませてくれるのです。

4、本当の意味で神を信じるか 神からの栄誉を求めかどうか

 現代、様々な社会的、家族、人生の問題においても、当時のユダヤ人がイエスに対してとった態度と同じことが起きています。本当に良い道を求めながら、実際には、力ある人や群衆(今ではネットのランキングや、「いいね」等も含むでしょう)という得体のしれない力に認めてもらわなければ進まないという目に見えない力に縛られてしまうのが現実ではないでしょうか。かといって、すべての権力、体制にとにかく反発し、今までの価値観をひっくり返すことだけが目的になってしまうこともあるでしょう。けれども、どちらも真実はそこにはなく、本当の幸いも解決もありません。

 しかし、イエスご自身の内にこそ、答えがあります。イエス・キリストは、決して社会の外側で仙人のような生活をされた方ではありません。すべてに反抗された方でもありません。人間の承認を得ようと、世の波に振り回された方でもありません。ローマの支配や、宗教権威者たちの派閥争い、民衆たちの身勝手な振る舞いの中でも、聖書の示す神のことばに生き、隣人を愛し、まっすぐに生きられた方なのです。そして、父なる神ご自身が、イエスのなさることをことごとく実現させ、保証されたのです。このような方こそ、神が遣わされた方です。このようなイエスを信じる人こそ、まことの神を本当に信じる人なのです。

 このことに異論を唱える人も、またすでにイエス様を信じておられる方も、是非、イエスご自身の言葉と行いそのもに目を留めて頂きたいのです。私自身その必要性を覚えます。そうでなければ、今も昔も、外国の日本も、人は常に自分の欲望や、周囲の目に大きく左右されて、束縛されてしまうからです。そして、神を信じているつもりでも、実際に信じているのは、人の評価、ランキングという変わりやすく、表面的で、何の保証も無い、虚しい世の力に囚われてしまっていることが少なくないのです。

 そのような私たちを救うためにこそ、イエスは、この世のあらゆる「人からの栄誉」を拒否されたのです(41節)。ですから、この方に真実を求めようではありませんか。人の評価や自分の願望ではなく、聖書そのもの、聖書に記されているイエスの言動に目を留めようではありませんか。そして、うわべではなく人の心をお調べになるまことの神にからの「栄誉」を求めようではありませんか。そこにこそ、偽りのない真実があり、いのちの道があり、人が本当に生きるべき確かな道が、永遠のいのちの道があるのです。

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