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みことばの糧63

2023年10月10日

試練に打ち勝つ祈り

ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。ヤコブの手紙5:16

 あなたにとって、祈りとはなんでしょうか。よく人は、自分の願望を表すためだけに「祈っています」という言葉を安易に使います。あるいは、祈りに込める願いの力や、その人の霊力のようなものが働くと考える人もいます。また、クリスチャンであってもしばしば、「祈ることしかできないけど」という言い方をしてしまうことがあります。しかし、ヤコブ書の教える祈りは、そのようなあやふやなものでも、祈る人間の力に左右されるものでもありません。また、人間の努力に付け加える気休めでもありません。

 ヤコブは、この手紙で大変な苦難の中にあるクリスチャンたちに、試練は喜ぶべき理由があること、また、本当の試練とは何か、乗り越えるためにどこを向けば良いか、その視点を教えて来ました。そこには、信仰と結びついた知恵、知恵と結びついた行いの重要性がありました。そして、その結論としての最後の勧めが「祈りなさい」(13節)なのです。神への祈りこそが、試練に打ち勝つ最も重要で力ある解決方法なのです。その力は、当時ローマ皇帝ネロの支配下にあって迫害を受け、離散の民として肩身の狭い思いをし、金と権力がものを言った当時の人々にも、実際的な解決をもたらすものだったのです。 

1、理不尽な苦難の中での祈り

 まず、ヤコブは「苦しんでいる人」は、「祈りなさい」と言います(13節)。ここで使われている「苦しんで」という言葉は、原語のギリシャ語では理不尽な苦しみを意味します。キリストを信じ、正直に、謙遜に、裏表なく、人におもねることもえこひいきすることなく生きる。聖書を信じ、その言葉に従って生きる。そのような生き方は、しばしば世当たり上手で、狡猾な人の前に無力に感じました。結局は、力ある人に媚び、表面的な生き方をする人が、苦しまず、得をするように思えた。多くの人が、そこであきらめ、妥協してしまいます。キリストを信じたはずの人でも、聖書を信じたと言いつつ、実際には、世の価値観とまったく同じ生き方に陥ってしまっていました(2:1~7)。しかし、そこで諦めず、「祈りなさい」とヤコブは言うのです。なぜなら、聖書に従い、真実に誠実に生きようとしているなら、それは神の目に正しい祈りだからです。神は、正しい道、誠実な道、ご自分を信頼し従おうとする人の道を喜ばれます。そうであれば、神は全能の御手を、必ず動かしてくださる。それが御心であることは、確かなことだからです。だからこそ、ヤコブは「苦しんでいる人がいれば、その人は祈りなさい」と言うのです。つぶやくことなく、悪口を言うことなく、諦め、失望する必要もない。神は、その祈りを喜んでくださるのだから。そうすれば、もう後は神ご自身の戦いです。そして、神は必ずご自分の御心を成し遂げることができる(イザヤ55:11)。ですから、聖書に従い、正しい生き方をして苦しみを受けているなら、祈ることこそが、最も確実で力強い解決なのです。そして、悪口(4:11)や、無気力、失望からもあなたを守ってくださるのです。不満を言ったり、人を責めたり、投げやりになったりする前に、まず祈るべきなのです。

2、祈りは人の弱さから立ち上がらせる力を与える

 祈りが御心にかなうならば、神は全能の力を働かせてくださる。その御心にかなう祈りの一つは、「人を立ち上がらせる」ことです(15節)。ヤコブは、今まで試練に打ち勝つ道を教えてきたのに、唐突に「病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい」と言います。この点も、「病気」という言葉が、原語では「無力」を意味することに目を留めれば、よくわかります。15節の「病んでいる」という言葉も、「衰弱した」という意味の言葉です。試練の中で、実際に病気の人は、もう試練に立ち向かう気力どころか、体力自体がありません。実際に病気でなくとも精神的に疲れ切ってしまった人、試練に打ちのめされて、気力を失ってしまった人もいたでしょう。その時に、聖書は精神論だけを語りません。「オリーブ油を塗」というのは、当時の治療法の一つでもあります。ヤコブ書が行いの必要性に焦点を当てていることを館ガルと(2:14~26)、医療等実際の治療の必要性を言っているのでしょう。しかし、医療はある程度の病気を治療することはできますが、立ち上がるためには意志と気力も必要です。祈りは、そのすべてに解決を与えます。なぜならば、祈りを聞かれる神は、「その人を立ち上がらせ」る力があり、そう願っておられるからです。

 また、悪い思いや行いに陥っていたのなら、そこから悔い改め、立ち上がるためにも力が必要です。それも神の願いだからです(15~16節)。その意味でも、人の欠点を責めるのではなく、その人が良い方向に「立ち上がらせて」くださるように神に祈る。この道こそ、悪口を言ったり(4:11)、争ったりする(4:1)罪から私たちを守り、人を愛し、解決へ導く神の知恵、力なのです。弱さに失望したり、人を責めたり、裁いたりするのではなく、人を救い、立ち上がらせてくださる神に祈る。むしろ、自分の言いたくない弱い面、神の御前に罪である自分の醜く弱い部分のためにも祈ってもらう。ことこそ、誘惑と試練に打ち勝つ最高の道なのです。

3、正しい人の祈りは働くと大きな力がある

 そして、ヤコブは「信仰による祈り」(15節)、「正しい人」(16節)の祈りがいかに力強いかを語ります。しかし、神の御前に「正しい人」などいるのでしょうか。むしろ、誠実なクリスチャンほど、自分の罪深さ、信仰の足らなさに気づかされるものです。ヤコブが2:10で言うとおり、「律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われる」と言われるほど、神の正しさの基準は、厳しいものです。

 しかし、クリスチャンはイエス・キリストの御名によって祈ります。キリストご自身は、今も生きておられ、神の御前に完全に正しい唯一のお方です。ですから、自分の信仰深さでもなく、自分の正しさでもなく、イエス・キリストの正しさに依り頼んで祈る祈りは、「正しい人の祈り」であり、「信仰による祈り」なのです。

 しかし、ヤコブの強調点は、そこにはありません。ヤコブは、旧約の預言者エリヤの祈りの力強さを語ります(17~18節)。エリヤは、「雨が降らないように熱心に祈ると三年六か月の間、雨は地に降」らず、「再び祈」ると、「天は雨を降らせ、地はその実を実らせました」(17~18節、Ⅰ列王記17~18章)。しかし、ヤコブはエリヤが特別正しかったからとか、特別信仰が強かったからとは言いません。「エリヤは私たちと同じ人間でしたが」と言ったのです(17節)。つまり、私たちも同じ神に、同じように祈るならば、あなたの祈りもまたエリヤの祈りと同じように驚くべき力を持つと言っているのです。

 そんなばかなと思うかも知れません。しかし、まずヤコブが「同じ人間」というのは、原語では「同じように苦しんだ」人間という意味があります。エリヤが働いた当時、エリヤがいた北イスラエルは、イスラエルという国でありながら、聖書の神を信じる人はほとんどおらず、王自身が偶像崇拝のための預言者を大量に雇い、神の預言者を殺したのです。そして、エリヤが祈って雨が降らなかった間、エリヤもまたわずかな水と食糧で生活しました。当時のクリスチャンと同じ最悪の環境の中で、神が祈りを聞かれたのです。その祈りが王の迫害にも打ち勝たせ、聖書の真実さを神ご自身が証明し、エリヤを救い出してくださったのです。

 また、エリヤの祈り自体、本来エリヤ自身の願いではありませんでした。Ⅰ列王記17~18章を読んでも、エリヤが明確に祈ったという記事はありません。18:42に「地にひざまずいて自分の顔を膝の間にうずめた」とあるのが、祈りを表していると言われれば、そういうことなのかと思うぐらいです。むしろ、雨が降らせなかったり、降らせたりするのは、神ご自身の意志であり(17:1、18:1)、神ご自身がそう語られたのです。神の言葉通りになることによって、王に力によって支配され、自分の意見を表明出来なかった民が、自分の罪に気づき、神の祝福を受けられるためでした。エリヤは、その神の言葉と、神の御心を信じて、その通りに祈ったのでしょう。神ご自身がそうしようと考え、語られたことですから、エリヤの祈りを神が聞かれるのは、当然です。

 しかし、今の私たちもエリヤのように祈れるのです。なぜなら、聖書に神の御心が書かれており、神はその言葉通りにしようとしておられるからです。しかし、私たちはしばしば、今の日本では、こんな自分では、私の周りの人間関係では、聖書に従えない。時代が違う、自分が弱すぎる、周りの環境が難しすぎると考えてしまいます。しかし、難しいのは、エリヤの時代もヤコブ書の時代も同じでした。いいえ、当時の方がよほど今の日本より厳しかったでしょう。ですから、今も聖書が命じるとおりに行えるよう神に祈るならば、その祈りは、「信仰による祈り」であり「正しい人の祈り」であり、力強く働くのです。なぜなら、その祈りは神の御心を信じる祈りであり、神の語られたことは「正しい」からです。エリヤの祈りを神が聞かれるのが当然だと考えるならば、あなたも聖書の通りに行動したいと願い、祈るならば、神が聞かれるのは当然なのです。その祈りを成し遂げられるのは、あなたではなくエリヤの祈りを聞かれた同じ神だからです。だからこそ、今の時代であっても、日本においても、あなたの周りの人の間でも、この祈りが「働くと大きな力がある」のです。

 このように祈りこそ、誘惑と試練に打ち勝つ最大・最善の道なのです。