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みことばの糧62

真実に生きることを追い求める者に神はご自分を現される

だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。ヨハネの福音書7:17~18

 人の話を聞くときに二つの態度があります。一つは、あらかじめ自分の答えを持っていて、その答えの価値を認めてくれるか、認めてくれないか、という態度です。もう一つの態度は、自分がまだ理解出来ていない真実を知りたい、行えるようになりたいと願って聞く態度です。

 これは何に対しても同じです。科学であっても、自分の答えを先に持っていると、それに合わない実験データは事実であっても見ようとしません。しかし、誠実な人、本当に真実を求める人は、自分の仮説に不都合であっても、理屈に合わないように思える予想外のデータでも、決して無視はしません。そして、その不都合で意外なデータから、重要な真実が見つかる事もあるのです。

 神が遣わされた救い主を知る時にも、この態度が最も重要になります。自分の持っている主張に合うか合わないかで聖書の言葉、イエスのことばを聞く人は、そこに不都合な答えしか見ることができません。けれども、どの宗教が正しいとか、間違っているとか、また自分の主張にこだわることを捨て、本当に人としてあるべき生き方は何か、その生き方をしたいと願うならば、聖書はその人に真理を悟らせてくれます。そして、とくに神の存在を認め、その神の御心を行いたいと切に願うならば、イエスの教えが「神から出たもの」であることがわかるのです。しかし、実際には、ほとんどの人は、自分の主張が先にあります。気をつけないと自分は、クリスチャンだと思っている人でさえ、この間違いを犯してしまいます。私もそうです。そして、キリストのことばそのものに従っているのではなく、自分の考え方、生き方、自分の所属しているところの正しさといった「自分の栄誉を求め」るために、聖書の言葉を利用し、「自分の栄誉」のために聖書を解釈してしまうことがあります。そして、人の間違いを探し、人を裁くのです。しかも、その間違いは、神の目から見ての間違いではなく、自分の主張との違いです。しかし、それはもう救い主に対する信仰ではなく、自分に対する信仰になってしまっています。最も重要なことは、自分の願いではなく、すべてをご存じで、すべてにおいて公正で、すべての人を愛しておられる、「神のみこころを行おう」として聖書に聞くことなのです。

1、本来の目的を見失うことの問題

 当時のユダヤ人は、長年にわたり救い主の到来を心から待望していました。ところが、現実にその救い主が目の前に現れると、受け入れることができなかったのです。その理由の一つは、「神のみこころを行おう」と願って、耳を傾けなかったからです(17節)。

 当時のユダヤ人が、イエスの教えに素直になれなかった代表的な問題の一つに、イエスが安息日に人を癒やすという問題がありました(23節)。また、このヨハネ福音書で取り上げられているのは、イエスが安息日に、病の人に「床を取り上げて歩け」と命じられたことでした。聖書は、安息日に働くことを禁じていました(出エジプト20:10)。そのため彼らは、イエスが律法を犯している、つまり神に反抗している人物に見えたのです。一見この問題は、旧約聖書の律法とイエスの教えの対立に見えます。しかし、実際は、旧約の律法の問題ではなく、彼らが「神のみこころを行おう」として律法を読んでいなかったことが、問題の本質だったのです。

 安息日に癒やすことが仕事にあたるかどうかも問題ですが、とくにヨハネが取り上げているのは、38年間病に伏していた人を癒やす際、「起きて床を取り上げ、歩きなさい」と命じたことでした(5:8)。ヨハネ5章を読みますと、彼は非常に長い間、病によって動けず、人にも見放されてきたために、自分から何かをする意欲を失い、完全に他人任せになっていたことがわかります(5:6~7)。だからこそ、イエスは彼のからだを癒やすだけでなく、彼が生きるための意志をも回復させるために、「起きて床を取り上げ、歩きなさい」と命じる必要があったのです。モーセの律法が禁じていたのは、万物をお造りになった神をないがしろにして、自分の都合だけを考えて、神よりも仕事を第一にすることでした。また、人の欲望のために使役されていた労働者に、定期的な休みを与えるためでした(出エジプト20:9~10)。神が望んでおられたのは、人が間違った欲望によって滅びることから救うことであり、神の願いはあくまでも人が生きることだったのです(申命記30:19)。

 これは、聖書の律法だけでなく、あらゆる規則に言えることです。あらゆる規則は、弱い立場の人を不公平から守り、互いに公平に、幸いに生きられることを目的として作られたはずです。ですから、規則の文字にとらわれるのではなく、互いを思いやり、本来の目的を果たそうとしてルールを見れば、ルールは決して厳しいものでも窮屈なものでないことが多いものです。ところが、ルールの網目をくぐろうとする人が現れたりします。あるいは、「あの人はルールをやぶってずるい」と言う人が出てきます。そのような意見に対応しようとする内に、ルール本来の意味は見失われ、ルールが無意味に細かくなってしまうことがあります。昨今問題とされている校則の問題も、これと似ているように思います。校則もまた、近所の人の苦情に対応するために出来るだけ問題とならないよう無難なルールが定められがちのようです。そのために、本来学生の成長や、人間性のために必要ではないルールが付け加えられ、そのルールに合わない人が、反抗的に見られてしまう。このような問題は、校則だけではないでしょう。古今東西、様々な時代、場所で、このような問題が繰り返されているのです。そのために、私たちは本来の道を見失いがちになるのです。

 しかし、イエスの教えには、そのように道を見失いがちになる私たちが、本来の道を見出すために必要な教えが豊かにあります。ですから、私たちが、真実な道を求めるならば、また、「神のみこころを行おう」と求めるならば、そこにこそ本当の解決がある。神が人間にお与えになった解決がある。そのことを見出す事が出来るのです。 

 ですからキリスト教に批判的な人も、是非、キリスト教の欠点を見つけようとしてではなく、本来人が歩むべき道は何なのかと問いかけながら、聖書を読んでいただきたいのです。また、クリスチャンも、他の宗教や、未信者の考え方を批判するためではなく、自分自身が「神のみこころを行おう」として、そのために聖書を読んでいただきたいのです。

 

2、自分の栄誉を求める問題

 今まで見て来たように、当時のユダヤ人たちがイエスを受け入れられなかった原因の根本には、「神のみこころを行おう」としていなかった問題がありました。

 では、彼らは何を求めていたのでしょうか。それは「自分の栄誉を求め」ることでした(18節)。

 実は、ユダヤ時自身も安息日に働いていました。「安息日にも割礼を受け」ていたのです(23節)。その理由として、彼らは「モーセの律法を破らないように」という根拠を主張していました(23節)。しかし、本当にそれが理由だったのでしょうか。と言いますのは、割礼はアブラハムから始まったことであり、モーセの律法ではじめて定められたものではなかったからです(22節)。「モーセの律法を破らないように」という理屈は成り立たないのです。では、彼らが「安息日にも割礼を受け」る本当の理由は、何だったのでしょうか。割礼は、本当に神を信じているか、信じていないかにかかわらず受けることができます。そして、異邦人とユダヤ人を区別し、自分たちこそ神の民だと誇るためのしるしとなり、ユダヤ人の一員であるしるしともなったのです。本来割礼は、神の約束を信じた証として与えられるものでした(ローマ4:11)。しかし、彼らは、割礼を信仰の証ではなく、民族主義、つまり自分たちの栄誉のために利用していたのです。ですから、「安息日にも割礼を受け」るべきだという教師たちの教えには、喜んで従ったのです。

 しかし、そのように教える人も、その教えに喜んで従う人も、本当に「神のみこころを行おう」としたわけではありません。「自分の栄誉」のために、自分にとって都合良かったからです。そのような教えは、聖書の言葉を使っていても、神から出たものではありません(17節)。そして、「神のみこころを行おう」とせず「自分の栄誉を求める」人も皆、そのような教えを喜んで受け入れるのです。

 しかし、イエスの教えは、「自分の栄誉を求める」ためでなく、「自分を遣わされた方の栄誉を求め」て語られました。ですから、人に媚びませんし、人の人気を集めるかどうかで話しを変えたりしませんでした。だからこそ、大勢の人が離れていきました(6:66)。また憎まれもしました(7:7)。けれども、このように人に媚びることなく、また、「自分の栄誉」のためでもなく語るこのイエスこそ、神が「遣わされた」方なのです。そのイエスが語る言葉こそ、神の言葉なのです。

 ですから、人の話を聞くときに、その人が「自分の栄誉を求めて」語っているのかどうか、そこに目を留めることは、大変重要です。そして、「自分の栄誉を求める」ことなく、むしろ十字架につけられてもなお、ご自分を憎む人たちを愛し続けられたイエスにこそ、神の言葉があることを見て、また信じていただきたいのです。

3、神のみこころを行うことを求めて聖書を読む

 そのように今、キリストを信じている人も、信じていない人も、「神のみこころを行う」ことを求めて聖書を読むことが非常に重要です。その時に、あなたは、自分自身で神を知り、神のみこころを悟り、神の豊かな恵みと救いにあずかるのです。極論を言えば、聖書すべてを暗記し、教理的に正しい知識があっても「神のみこころを行おう」としていなければ、本当の意味で神を知ることはありません。しかし、わずかな知識しかなくとも、「神のみこころを行おう」として聖書を読み、御言葉を聞くならば、神は豊かにあなたに悟らせ、成長させ、多くの実を結ばせてくださるのです。

 その意味で、信仰を強調するあまりに、旧約聖書の律法を全否定してしまうことも大きな問題であることがわかります。律法の問題は、人間が律法に従おうとすることでは救われないということであり、そこに「神のみこころ」が示されていることには、間違いないからです(実際イエスは、死からよみがえられたとき、ご自分の復活を悟らせるために、「モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた」)。ユダヤ人の間違いは、「自分の栄誉を求めて」、外面的な儀式を守っているだけで、自分たちが神に認められるように勘違いしたことです。ダビデは、律法をそのような自分たちを誇るためのものとも、窮屈なものとも見なしませんでした。ダビデは、自分が神に認められるためではなく、神の御言葉を悟り、行うところに幸いがあると信じ、御言葉を慕いました。詩篇119篇を見ると、神の律法に対する豊かな讃美に満ちあふれています。詩篇119篇を見ると、ダビデは決して行いによる救いではなく、信仰によって御言葉を喜んでいたことがよくわかります。ダビデは、自分が認められるために律法を読んだのではなく、神の御言葉にこそ幸いがあると信じ、そのように生きられることを、心から慕い求めたのです。だからこそ、律法を慕いながら、形式主義に陥ることもなく、大胆に行動できたのです。

 現代のクリスチャンも、旧約聖書の律法を否定しながら、自分たちのやり方を誇ってしまうと、当時のユダヤ人と同じ過ちに陥ってしまいます。自分たちの立場や、習慣、活動方法が、新たな律法となってしまうのです。神の律法ではなく、「自分の栄誉を求める」ための道具と化してしまいます。このことを私たちは、警戒しなければなりません。

 大切なのは、自分が「神のみこころを行おう」としているかです。