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みことばの糧5

キリストによる救いが生み出す幸いな関係 夫婦関係

妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。……夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。エペソ人への手紙5:22,25

 今回は、内容の関係上、いつもより少し長文になります。

 このことばは、現代の人たちの目には、時代錯誤にうつるかも知れません。あるいは、男尊女卑を支持しているように聴こえるかも知れません。しかし、この御言葉は前述のどちらとも違い、世が生み出すことの出来ない、キリストによる救いだけが生み出すことの出来る、特別な人間関係を教えていることを考慮する必要があります。

 第一に、この当時すでに、エペソ周辺では、両性具有に理想像を見るような、男女の違いをなくすことを理想とする思想が人気を得ていたようです。それは、エペソを中心とした小アジアは、ローマ帝国による支配を受け、権力・権威に対して、激しい嫌悪感があったからです。そのエペソに敢えて、聖書がこのように教えていることを覚える必要があります。第二に、この関係は、「主に従うように」、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように」と書かれている通り、キリストによる救いを受けた者だけしか築く事の出来ない関係だということです。

 聖書には、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神の三位一体の愛の交わりを見ることが出来ます。子なるキリストは常に父に服従する立場でありならが、そこには豊かな愛と信頼があります。キリストは父なる神に全幅の信頼を寄せ、父なる神もキリストを最も深い愛で愛しておられる故に、そこにはこの世の主従関係のような優劣関係はまったく存在しません。神は、キリストの救いによって、人間の夫婦関係も三位一体の関係に近づけて下さったのです。

 キリストが父なる神に信頼と愛による服従をするように、教会もキリストを主として従います。それは、キリストが「教会を愛し、教会のためにご自分を献げ」てくださったからです。神からご覧になれば、罪と汚れだらけの私たちのために、キリストご自身が嘲られ、唾を吐きかけられ、十字架の恥と苦しみを受けて、いのちさえ犠牲にして下さいました。教会は、このキリストの犠牲が私のためだと信じた者の集まりです。だからこそ、罪人である私のためにいのちまで捨てて愛して下さった方への信頼から、喜んで服従する動機が与えられました。

 そして、キリストもまたそのような私たちを、人間は自分より下位の存在であるにもかかわらず、「自分のからだのように」(28節)愛して下さっているのです。

 人間の夫婦が、このキリストと教会の関係を夫婦間で再現しようとするときに、そこに三位一体の神に近い、素晴らしい愛と信頼の交わりが築き上げられて行きます。この関係は、救いを受けた者にしが築けません。救いを受けた者は、自分自身がキリストに同じ事をしていただいた経験があるから、そして聖霊の助けがあるから可能になるのです。そして、信者の夫婦は二人ともどちらの立場も理解出来る基盤があります。言うなれば、キリストによる救いが罪によって歪んでしまう夫婦関係を聖めてくださるのです。

 そして、これは夫婦関係だけでなく、あらゆる人間関係の基礎となっていくものです。この世は、平等を模索しつつ、新たな問題を抱えざるを得ません。平等を目指す者同士の間にも、しばしば争いが起きます。男性らしさ、女性らしさがあまりにも否定されれば、男性、女性ならではの素晴らしさも曖昧にならざるを得ません。けれども、キリストによる救いと聖書の知恵が示す夫婦関係、人間関係にこそ、三位一体の神に近い最高の関係があるのです。救われていても、ここに記された関係とはほど遠い自分の姿を認めざるを得ません。しかし、この関係を互いに目指して行くところに、成長と幸い、神の豊かな祝福があるのです。そして、それを得るようにと、キリストが私たちをとらえて、助けてくださいます。キリストの救いは、人間関係、家族、社会をも豊かにする力があるのです。