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みことばの糧32

2023年1月15日

本当の意味で神を信じるとは ~神ご自身の証言に耳を傾ける

しかし、わたしにはヨハネの証しよりもすぐれた証しがあります。わたしが成し遂げるようにと父が与えてくださったわざが、すなわち、わたしが行っているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わされたことを証ししているのです。 また、わたしを遣わされた父ご自身が、わたしについて証しをしてくださいました。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたことも、御姿を見たこともありません。

ヨハネの福音書5:36~37

 

 今回の箇所は、人が神を信じるとは、とくに救い主を信じるとはどういうことかをよく教えてくれます。この箇所に続く文脈を読みますと、神を信じると言っている人の多くは、実際には神を信じているのではなく、この世を信じているに過ぎないことがわかります(43~44節)。多くの人は、宗教の違いに問題を感じますが、本当に問われなければならないのはここです。神をどのように信じるか、どこに根拠を置くかです。この箇所に従えば、神を信じると言っていたユダヤ人の多くでさえ、神を信じていると公言し、本人もそうだと思っていながら実際には、神とは別のものを信じていたことがわかります。そして、キリスト教だけでなく、あらゆる宗教において同じことが言えます。確かに、聖書は最終的にイエス・キリストこそ神であることを伝えます。しかし、それは他の宗教と比較してのことではありません。人が本当に神の存在に目を向け、神ご自身の証言に耳を傾けるところに答えがあることを教えているのです。ですから、神を信じておられない方は、まず宗教がどうかよりも、何をどう信じるべきかに目を留めていただきたいのです。私たちは神に対してだけでなく、人間に対しても、科学に対しても、政治に対しても、あらゆる真実に対して実は同じような問題を抱えているからです。

 そして、自分がクリスチャンであると思っている人自身も、このことばを真摯に受け止め、再確認する必要があります。自分は当時のユダヤ人とは違うと考えるべきではありません。人間である以上同じ弱さを持っています。むしろ、何千年も聖書を受け継ぎ、命がけで神を信じてきたユダヤ人たちの信仰を軽く考えるべきではありません。それでも反れて行く人間の弱さを正視し、この箇所に教えられているイエスのことばと真剣に向き合うところにこそ、本当の信仰があるのです。そして、その信仰こそがその人の罪の性質、弱さから救い出す、神の力となるのです。

1、イエスのことばが真実かどうかが問われる背景

 まず、この箇所の背景にある出来事を知っておくことは重要です。背景に目を留めると、イエスの証言を信じるかどうかは、単なる宗派や解釈の問題ではなく、イエスご自身が人を誘惑し大罪を犯しているか、むしろ人を救うわざを行っているかを分ける大問題だからです。聖書の教えは、これほど人の人生、社会生活の核心に迫るものです。その人が心の中で信じていればよいという個人的な問題に終始しません。その教えが真実かどうかが、すべての善悪の判断、社会生活に強く影響を及ぼすものなのです。

 この箇所の背景にある出来事は、イエスが安息日に人を癒やしたという出来事です(9節)。さらに、イエスは「神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされ」ました(18節)。このようなイエスの行いを見て、ユダヤ人たちはイエスに対して激しく怒り、殺そうとするようにまでなりました(18節)。このようなユダヤ人たちに対して、イエスは感情的に受け答えするのではなく、客観的にお答えになったのが今回の箇所です。
 もし、イエスが神でないのならば、確かにイエスの語った言葉は偽証であり、神への冒涜です。これは、神を信じるユダヤ人にとって、また聖書を信じる人にとって大問題です。ですから、この問題は宗派の問題とか、解釈の問題ではありません。イエスが、本当に神であるかどうかにかかっているのです。イエスは、ご自分を信じてもらうための説得はなさいません。イエスのことばが偽りであれば、大変な罪であり放置しておくことの出来ない問題。しかし、神であるならば、イエスのなさっていることこそすばらしい神の救いのわざ。だからこそ、その真偽を、あなた自身が客観的に判断しなければならない。その判断の基準を示しているのがこの箇所なのです。

2、複数の証言者の言葉を聞く

 イエスが語られた言葉、イエスの行われたことは、当時のユダヤ人が信じて来たこと、大切にしてきた習慣を揺るがすものでした。ある意味で彼らの価値観、生き方、信念を根底から揺るがすものでした。だからこそ、その真偽を問わなければなりません。ですから、イエスはこう言われました。「もしわたし自身について証しをするのがわたしだけなら、わたしの証言は真実ではありません」と語ります。これは、第三者の証言がなければイエスのことばは不確かだという意味ではありません。そうではなく、人の言葉を信用するためには、複数の証言者が必要だという客観的事実に照らしているのであり、聖書の律法が定める手順に則っているのです(申命記19:15)。このようにイエスは、ご自分を信じるようにと主観的に主張されません。そうではなく、彼らが本当に客観的に事実を判断しようとしているかを問うているのです。確かに、イエスが神の御子であるならば、そのことばは真実だとしなければなりません。しかし、それが偽りであれば、イエスのことばを信じることは大変危険です。だからこそ、イエスは真偽を確かめるプロセスを重視され、その手順を確認すしているのです。ですから、今の私たちもこの点をよく確認する必要があります。信じていない人は、頭ごなしに否定せずに、客観的に確かめようとしているのか。そして、すでに信じている人も、思い込みや、習慣としてではなく、本当に証言を確認して信じているかを問わなければならないのです。カルトに陥ってしまう原因もここにあります。

3、人の証言ではなく神ご自身の証言に耳を傾ける

 しかし、イエスが立てる証言者について多くの人は抵抗を感じます。イエスがこう言われるからです。「わたしについては、ほかにも証しをする方がおられます。そして、その方がわたしについて証しする証言が真実であることを、わたしは知っています」(32節)。

 「その方」を知っているのも、「その方」「証しする証言が真実であること」を知っているのも、イエスだけだと言う。そのような証人をどうして信じられるか。そう思ってしまいます。信じている私でさえ、最初この箇所を読んだときは、抵抗を覚えました。自分で自分を証明しようとする循環論法にしか見えなかったのです。しかし、ここにこそ人が本当の神を信じているかどうかが明確に問われているのです。ユダヤ人たちも神を信じていたはずです。しかしこの基準に照らすと彼らは、自分たちが解釈した教え、人間が承認した証言者しか信じていませんでした。なぜならば、彼らが信じる「神」とは、自分たちの承認を得た、言い換えれば人間が認める教えだけだったからです。だからこそ、イエスの語る言葉、行うわざに我慢ができませんでした。聖書に反していたからではなく、彼らが承認する人の教えや習慣に反していたからです。つまり彼らが信じていた「神」は、人間によって造り上げられた架空の神でしかなかったのです。これはあらゆる宗教において同じですし、キリスト教も無関係ではありません。しばしば、宗教は人間的組織の正当化に使われ、政治利用、戦争の正当化に使われるからです。このような宗教の問題に辟易して、多くの人は宗教に対して非常に強いアレルギーを持っています。しかし、それは聖書の教える神が間違っているからではありません。人間が自分に都合の良い「神」像を造り出し、その「神」を自分たちの組織、主張を権威づけるために利用してしまうからなのです。たとえ聖書の言葉を使い、聖書の示す神を指していたとしても同じです。その根拠が、神ご自身の証言ではなく、その教えを解釈する人間や組織の承認に基づいているならば、たとえ聖書の言葉を通してでも、その人の信仰は神に向いてはいないのです。たとえ、それが正しい教理を教える教会であってもです。

 そして、この問題は神信仰だけでなく、様々な派閥、政治、そして科学においてでさえ同じような問題があります。本当に真理の検証に目をとめるのではなく、私たちは意外と、自分たちが所属するグループや立場を正当化する情報にばかり目を留めてしまう傾向があるからです。インターネットの記事を見るときでさえ、私たちはこの偏見の眼鏡を通してでしか見ることができない現実があります。しかし、この箇所が教える聖書の教えに目を留め、本当に客観的に真偽を確かめることを大切にするときに、私たちはこの問題から救い出されます。だからこそ、この箇所が言っているように、人間の承認に基づかない客観的な証言、神の証言に耳をかたむけることが本当に重要なのです。

4、見たことのない神の証言をどのように知るのか

 では、父なる神を見たことのない人間がどうしてその神の証言を知ることができるのでしょうか。それは「聖書」です。神のことばである「聖書」自体が救い主に「ついて証ししている」(39節)。律法の教師たちの教えは、人間の解釈によってゆがめられています。しかし、本当に聖書そのものに目を留めるとき、聖書はイスラエル人の罪でさえも厳しく裁いています。そして、新約聖書もクリスチャンや教会の罪や問題さえも、鋭く示しています。聖書は人間の都合で書かれたのでも、人間を正当化するために書かれたのでもないからです。ですから、聖書そのものであるならば、私たちは安心して読むことが出来ます。多くの建国神話、宗教書は、その国や団体の正当性を権威づけるために都合の良いことばかりが書かれています。しかし、聖書は驚く程、イスラエルや教会の問題を赤裸々に書き綴っています。このような書が他にあるでしょうか。これほど客観的な書が他にあるでしょうか。身内の罪を赤裸々に示す書ほどに、客観的な書はありません。聖書は人間の都合によって書かれたのではなく、神のことばだからです。このような聖書そのものに素直に目をとめる時、そこにイエスこそ救い主だという証言があるのを見ることが出来ます。単に、予言(未来を言い当てる)が当たったということだけではありません。イエスご自身の人格や判断のあり方、イエスに対する人々の反応、そのような内面的なことも含めて見るときに、確かにこのイエスこそ、聖書の教えの本質に生き、聖書が示す救い主の姿であったことがわかるのです。

つねにイエス・キリストと聖書そのものの言葉によって事実を検証して生きる

 ですから、まだ信じておられない方もカルトの問題を知りたい方も、是非、聖書そのものに耳を傾けていただきたいのです。自分の心を満足するために読むのではなく、何かを否定したり、肯定するために読むのでもありません。聖書が本当に語っているのは何かに目を留め、イエスのことばと行いに目を留める。そこにこそ、答えがあります。そのようにして、イエスのことばの真偽を確かめていただきたいのです。ですから、たとえ正しい教理だとしても、その立場を証明するためだけに聖書読むべきではありません。自分自身の罪や間違いを指摘されても受け入れる覚悟で、聖書の語っていることを素直に受け入れる心で読んでいただきたいのです。そして、その聖書が教えるイエスを信じているかどうか、何度も再確認して頂きたいのです。

 そこにこそ、本当の信仰があります。そして、その信仰こそが、私たちの弱さ、罪の性質から救う神の力となるからです。ですから、常に聖書そのもの、聖書そのものが語るイエス・キリストに目を向けてください。そのようにして、イエスを信じるときに、あなたは本当に神を信じているのです。自分が造り上げた理想像や、自分の願いの結晶を信じるのは、偶像崇拝と同じです。イエスの証言、聖書の証言に立ってこそ、本当に客観的に真実を確かめ、まことの神を信じる信仰に立てるのです。このような信仰は決してカルトに陥ることも、組織に利用されることもなく、社会においても誠実で、力強い歩みへと私たちを導いてくれます。聖書信仰は、本当の意味で客観的な視点と生き方を私たちに与えてくれるのです。