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みことばの糧23

最後まで責任を持って導く救い主

後になって、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」

ヨハネの福音書5:14

 

 私たちは、多くの場合自分の目の前の問題の解決を願い、その問題が解決出来なければ不満や失望を持ち、その問題が解決すれば安心してしまいがちではないでしょうか。しかし、多くの場合、目の前の問題の解決は本質的ではなく、重要なのはその問題が解決した後どうするか。そのような場合が多いのではないでしょうか。あるいは、自分が願ったような解決がなくても大きな影響はなく、何かに取り組み続けることの方が重要な場合があります。イエス・キリストは、そのように一時的な助けを与える救い主ではなく、私たちの人生の歩みそのものに責任を持ち、導いてくださる。そのような方であることを、この箇所から見ることができます。

 

1、新たに生きるための道を開く救い主

 今日の箇所にでてくる男性は、三十八年間、病気(おそらく今でいう障がい)に伏していた男性です(みことばの糧22参照)。彼にとって、最も必要としているように見えたのは、病気の癒やしでした。そのために、天使が癒やすという迷信のあったベテスダの池にの近くに横たわっていました。しかし、三十八年のいう長い年月と失望の積み重ねが、良くなりたいという思いさえ奪っていました。その彼に、イエス・キリストの言葉は、立ち上がる意欲を与え、立ち上がるための癒やしを与えたのです。

 しかし、それは本質的な解決ではありませんでした。だからこそ、イエスは「後になって、」神殿の中を捜し回り、宮の中で彼を見つけて言われた」のです。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。」と(14節)。聖書は、あらゆる病気や災いが直接的な罪の結果であるとは言っていません(ヨハネ9:3、ルカ13:1~5等)。むしろ、神の栄光を現すために与えられる病や障がいもあります。しかし、中には本人の不摂生や過失、悪い習慣、行いが病気や事故を引き起こすことがあることは事実です。この男性の場合は、そのように本人の行いに問題があった可能性があります。それでもなお、イエスは癒やしてくださる。自分の過失や罪によって招いた災いであっても、神はその問題から立ち直らせ、新しく生きることを望んでくださる。そのために道を開いてくださる方なのです。

2、本当の問題・災いから離れて生きる

 しかし、癒やしや当面の問題解決は、本質的な解決ではありません。彼は、今までできなかったこと、歩くことができるようになりました。しかし、重要なのはこれからです。その歩ける足を使って、どのように生きるかが癒やされること以上に重要なことなのです。同じように、キリストは今の私たちにも当面の解決を与えてくださいます。その最も重要なことは、神に対する罪の赦しです。人間は、神に喜ばれない思い、生き方をしているために神から遠く離れ(エペソ2:12)、神から祝福を受けられず(イザヤ59:2)、神の怒りを受けるしかなく(エペソ2:3)、死後に裁きを受けなければならない状態にあります(ヘブル9:27等)。しかし、神は、私たちの身代わりにキリストを十字架につけることによって、信じる者にあらゆる罪の赦しを宣言してくださいました。それは、キリストを信じた瞬間に与えられる恵みです。そして、歩けるようになった男性が、再び寝たきりにはならなかったように、この罪の赦しも失われることはありません。

 しかし、それは救いの重要な一面ではありますが、目的ではありません。目的は、罪赦された後にどう生きるかなのです。また、目の前の問題が解決された後(あるいは解決されないように見える時も)、どのような道を歩むかなのです。だからこそイエスは「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。」と声をかけられました。病気が癒やされたことですべてが解決したかのように思ってはならない。これからが重要なのだ。これから罪を犯すならば、「もっと悪いことがあなたに起こる」。そのように警告されたのです。

3、聖書が示す罪こそが本当の問題であり災いの源

 聖書は、私たちに罪とは何かを教えます。その基準は、心の動機にさえもおよび、この世の刑法よりもずっと高い基準です。しかし、それは私たちを縛るためではありません。罪が私たちに「悪いこと」をもたらすからなのです。アダムとエバが罪を犯したときもそうでした。神が園の中央にある木から取って食べてはならないと命じたのは、「その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」からでした(創世記2:17)。神がモーセを通して律法を与えられたときも「あなたはいのちを選びなさい」(申命記3:19)と語られました。神は、私たちに生きて欲しいのです(エゼキエル18:32)。だからこそ、何が罪かを示し、私たちをいのちの道に導こうとしてくださるのです。当時の社会で三十八年間床に伏して生きることは本当につらかったことと思います。しかし、罪の道を歩み続けることは、それ以上の悪い問題を私たちに引き起こすのです(ローマ6:16~23)。ヨハネの福音書においてイエスは、ご自分の救い主の働きを羊飼いにたとえられます(10章)。羊飼いは、羊が行きたがっても、そこにおいしい牧草があっても、そこが崖の近くであったり、オオカミが潜んでいる場所ならば羊を止めます。そのようにイエスは、足の癒やされた男性を導いておられるのです。ここにこそ、本当の救いがあります。つまり、目の前の問題が取り除かれること以上に、その後、罪から離れて生きるように導いてくださる。そこにこそ、私たち人間が本当に必要とする救いがあるのです。

4、いのちがけで捜し出し、働き続ける救い主

 このようにイエスは、病気の癒やしだけで男性を放置せず、その後のことまで責任をもって導かれました。そのためにまず、彼を捜し求められます。彼は、自分を癒やした方が誰かも知らず(13節)、その方を求めることもしなかったからです。そのように人間から、救い主を捜し求めることは、ほとんどありません。いいえ、まったくないと言って良いかもしれません。私も最初から自分の罪からの救いの必要性を覚えて、救い主を求めたわけではありません。その必要性さえ感じませんでした。だからこそ、イエスが彼を捜し求めてくださるのです。そして「見つけ」てくださいました。救い主は、私たちを救うために捜し求めてくださる方なのです(エゼキエル34:11)。

それは、ある点でいのちがけの働きでした。なぜならば、イエスが彼を癒やし、彼に「床を取り上げて歩け」と命じたのは、働くことが禁じられていた安息日だったからです(5, 12節)。しかし、安息日は自分のために働くことが禁じられた日です。神が愛する人間を罪から救うために働くことは、むしろ御心にかなったことです。しかし、そのような行為は当時のユダヤ人の誤解を招き、イエスのいのちを危険にさらしました(18節)。それでもなお、イエスはご自分のいのちより、彼の救いを優先され、彼を捜し求め、導かれたのです。

5、人生を担い最後まで責任を持ってくださる救い主に従う幸い

そのようにイエスは、働き続ける救い主です。祈った時だけ願いをかなえるような、一時的な解決を与える方ではありません。ご自分のいのちをかけて、ときには励まし、力を与え、時には叱咤激励し、時には警告し、戒める。イエス・キリストは、まさにそのような救い主なのです。そして、「良くなりたい」という意志さえ失っていた者さえも立たせ、導く救い主です(6~7節)。私たちの最も弱い部分、醜い部分、失敗や自分の愚行に沈むときであってもなお、愛し、立たせ、責任をもって導いてくださる方なのです。

 だからこそ、この救い主の言葉、導きに従うところに真の幸いがあるのです。

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。Ⅰペテロ2:24~25

 一時的な目の前の問題の解決にまどわされず、その先にある人生そのものの解決がここにあります。この救い主を信じ、その導きに従い、罪を離れて生きるところにこそ本当の自由と幸いがあるのです。