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みことばの糧42

2023年4月23日

キリストの復活はキリストを信じる信仰の根幹

そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。(中略)……すべての人の中で一番哀れな者です。Ⅰコリント15:17~19

 イエス・キリストの復活は、信じる人の心の中だけの問題ではありません。もし、キリストの復活がなければ、クリスチャンは、「すべての人の中で一番哀れな者」(19節)だと聖書は言います。それどころか「神についての偽証人ということにさえなります」(15節)。キリストの復活が事実でなければ、クリスチャンは大嘘つきであり、信じていることも無意味であり、神に対して大罪を犯している者です。それ程、キリストの復活の有無は、キリスト教信仰において重大な出来事です。これが事実だと告白するクリスチャンは、単なる気持ちの問題ではなく、人生をかけて告白しています。また、それほどの価値があるのです。キリストの復活があるならば、すべての人間にとって、これほど大きな希望はないのです。どれ程、理不尽なことが起きても、正しく誠実な生き方をする者が必ず報いを得られる。そのことをキリストの復活は、確実に保証しているのです。

1、キリストの復活がなければクリスチャンは大嘘つき

 パウロは、キリストの復活の有無は、単に信仰の立場の問題でも、信じる人の気持ちの問題でもないと言います。もし、キリストの復活がなければ、「神についての偽証人ということにさえ」なるとパウロは言います。なぜなら、もしキリストの復活が事実ではないとするならば、クリスチャンは「神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるから」です。これは、宗教の違い、宗派の違いという問題ではありません。偽証罪なのです。これは十戒の第九戒(出エジプト記20:16)を犯す、大罪です。神を伝える、救いを伝えると言いながら、自分自身が神に対して大罪を犯している。この世で最も大罪人になってしまいます。パウロは、ユダヤ人の中でも最も神の律法(実際には多分に聖書から逸脱した伝統になっていましたが)を重んじる人の一人でした。そのパウロが、十戒を犯す罪の重さを知りながら、なおキリストの復活の事実を伝えるのは、それが単なる願いではなく事実であるからに他なりません。今も、クリスチャンは、そのくらい自分の人生をかけて、この告白に立っています。そうでなければ、クリスチャンの人生はすべてが偽りであり、嘘まみれであり、最も空しく、哀れな生き方をしている人たちなのです。信じていることが事実でなくても、平和で道徳的な生き方をしていればそれでよいということには、ならないのです。 

2、キリストの復活がなければクリスチャンの信仰は無意味

 さらにパウロは、キリストの復活がもしなかったとしたら、クリスチャンの信仰は、「空しい」のであり、福音の宣教も「空しい」と言います(14, 17節)。その理由は、一つに死んだ人物を信じていても、死体を信じているに過ぎず、死体を信じても何も生み出さないからです。それは、偶像崇拝と変わりありません。しかし、このⅠコリント15章でパウロが強調しているのは、そこではありません。キリストがよみがえったのでなければ、「あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます」と言うのです(17節)。聖書は、この世の人類は、すべて罪人だと言います。それは、聖書を信じてきたユダヤ人であっても、この世で最も正しいと言われる人物であっても同じです。動機において常に正しく、利他的に愛から行動し、常にまことの神に信頼し、誠実に生きている人は、だれもいないからです。

 この時に、罪の刑罰が取り除かれるかどうかという問題だけならば、キリストの身代わりの死だけで充分のはずです(Ⅱコリント5:21、コロサイ2:14)。しかし、それだけでは「罪の中」にいる私たちが救われるには、不充分です。なぜなら、私たちの心に利己的で、神に反抗的で、誘惑に弱い性質が残っている間は、私たちは罪の性質、その思考のくせ、心の傾向、生き方から解放されることはできないからです。よかれと思ってすることが、かえって悪いやり方にしかならない。良い決心をしながら、いつの間にか人の顔を気にし、空しく、自己中心的な思いに陥ってしまう。誘惑に負けて、後退したり、道から反れてしまったりする。このような問題から、完全に解き放たれることはできないのです。どれだけ努力しても。しかし、神がキリストをよみがえらせたのが事実なら、この問題についても完全な解決が約束されていることが明らかになるのです。キリストの復活がなければ、人間は罪の生き方から、救い出されることはないのです。たとえ、イエス・キリストを救い主と信じたクリスチャンであってもです。

3、キリストの復活が信じる者を新しいいのちによみがえらせる

 この点について、パウロは35節以降で詳しく教えています。ですので、詳しい話しは、ここでは取り扱いません。ただ大まかに言いますと、聖書はイエス・キリストを信じた人は、この肉体が滅びても、神がよみがえらせてくださると約束しています。しかし、その新しい肉体(実際には、精神も魂も含んだ総合的な存在)は、今まで生きて来た肉体とはまったく異なるものだということです。今、この地上で生きている人間は、すべて「血肉のからだ」と呼ばれる身体で生まれてきます(44節)。この「血肉のからだ」は、「最初の人アダム」に似ており、神に似せて造られた存在でもありますが(創世記1:27)、同時にアダム同様、神に対して罪を犯す性質もまたうけついでいます。その故に、常に堕落する傾向にあり、肉体的にも老い、「朽ち」、死を逃れられません。そして、神の刑罰を受けることが定められています。しかし、神がキリストを信じた者に約束されたよみがえりは、このアダムに似た「血肉のからだ」とは異なります。それは、「御霊に属するからだ」(44節)と呼ばれ、「天に属」し、「天に属する方」に似ています。つまり、神ご自身、イエス・キリストご自身と似た性質を持つ「からだ」、精神、心、霊を持つ人間として、よみがえらせていただけるのです。その時に、私たちは汚れた心から解放されます。動機においても聖められ、私たちの願う欲求そのものが、常に聖なる、愛に満ちた思いを持つことが出来る。そこにこそ真の自由、平和、喜びがあります。

 このような希望は、神が人類の初穂として、キリストをよみがえらせてくださったから可能とのなるのであって(20節)、キリストのよみがえりが事実ではないなら、あり得ない話しです。そうであれば、キリストを信じても、何の救いにもならないのであり、そこには何の解決もない。聖書は、そうはっきりと教えているのです。

4、キリストの復活が事実だからこそ信じる者は強い

 しかし、キリストの復活が事実だからこそ、クリスチャンは何があっても希望を失いません。この世では、正直な生き方、誠実な生き方、外面よりも内面を尊ぶ生き方が報いを受けられるとは限りません。かえって、器用に立ち回り、人脈を操作し、ずるいやり方をする人、ごまかすのが上手な人がうまくいくことも少なくありません。その世の中で、イエス・キリストを信じ、聖書に従う生き方は、一見とても地味に見え、困難が多く見えることがあります。そうは言っても、私自身は今までの人生を振り返っても、数え切れない程の神の助け、支え、恵みを頂いてきました。パウロの時代、その恵みも多かったでしょうが、神に従うことによる危険、苦難は、今の私たちと比べものにならないほど激しく、数も多かったのです。それでなお、パウロや、他のクリスチャンたちは、くじけることなく、希望を失うことなく、かえってますます聖書に従う生き方に進んで行きました(58節)。なぜなら、今どれほど理不尽な苦しみを受けても、かえって失うものが多くても、最終的には、罪のない、栄光のからだによみがえらせていただけるという、力強い希望に支えられていたからです。この世的な欲望につられて、自分の願望を叶えようとするカルトとは異なります。真の福音は、誠実な生き方に喜びと希望を見出させ、あらゆる苦難の中にも喜びを見出すことができる、そのような希望なのです。キリストの復活がなければ、この希望は、単なる願望であり、空想にすぎません。しかし、神はキリストを確かによみがえらせました。だからこそ、どの時代も、この希望に支えられて、逆境の中でも喜び、隣美と愛し、強く生きる人たちを、福音は常に生み出してきたのです。

 キリストの復活こそ、私たちに最も力強い希望を約束する事実なのです。聖書の信仰者達が、そのいのち、生涯かけて、真実をもって証言してきたのが、キリストの復活です。今もまた、信じる者の人生をささえているのが、このキリストの復活です。キリストの復活がなければ、キリスト教は何の意味もない、偽りの宗教です。しかし、キリストの復活が事実であるならば、ここに神が成し遂げられて、絶対的な救いがあります。聖書の信仰者達が、そして全世界の様々な時代に生きたクリスチャンたちが、その人生をもって証言してきた、この事実に目を留めていただきたいのです。そこにこそ、神の偉大なみわざ、神があなたを愛して、御子のいのちまで献げて成し遂げた、力強い、完全な救いがあることを信じていただきたいのです。