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みことばの糧43

2023年5月6日

キリストの復活が約束する未来

もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。…中略…それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。Ⅰコリント15:20,24

 イエス・キリストの復活が事実か、そうでないかは、今を生きる意味そのものが変わっている。それ程の内容を持っています。当時のコリント教会のクリスチャンたちは、派閥争いをしたり(1:10以降)、ある者は享楽的になり、不信者よりも不道徳な生き方に陥っていました(5章)。それでいて、悔い改めたり、自分たちの罪に悲しむこともありませんでした。それは、多分にキリストによる救いを、感覚的満足感や罪の赦しだけに矮小化していたからと思われます。そして、聖書を自分の感性や当時の世の中の流れに沿うように解釈し、それが賢さのように考え、誇っていました(参考3:18~21、5:1~2,6等)。そのような彼らの問題の一つは、キリストの復活を認めず、またキリストの復活が約束する未来を見据えていなかったからです。

 しかし、キリストの復活が約束する未来をしっかりと見据えるならば、たとえ今、善を行って苦しんだり、苦労した働きの実を見ることができなくとも、誘惑に負けず、本当に価値あること、誠実なこと、神の御前に正しいことに、喜びをもって取り組むことができるのです。

1、初穂としてのキリストのよみがえり

 パウロは、20節で「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と言います。「しかし、今や」と言うのは、キリストの復活が事実でないならば、クリスチャンの信仰も、福音も、宣教も空しく、意味がなく、むしろ偽証罪さえ犯しているという今までの仮定に対する答えです。もし、キリストの復活が、作り話で偽りであれば、クリスチャンの信仰も働きも空しく、偽りです。しかし、「しかし、今や」キリストは、よみがえられた。それが事実なのだから、これだけの素晴らしいことが起きている。その素晴らしい事が何かを20節以降で解き明かしています。

 そこで最も重要なことは、キリストのよみがえりは、キリストを信じる者の「初穂」であったということです。「初穂」と言うのは、その年の収穫の初物を指します。たとえば神への捧げ物であるならば、この「初穂」を神に捧げるということは、今年の収穫の最も良い部分を献げたということになります。そのように「初穂」は、その後に続く収穫の代表という意味を持ち、それに続く収穫も「初穂」と同じ性質を持つというニュアンスを持っています。

 つまり、キリストが「眠った者の初穂として死者の中からよみがえられた」という事実は、神がイエスを救い主として信じた者に、キリストのよみがえりと同じよみがえりを経験させる。その保証だということです。それだけではありません。よみがえられたキリストが経験することもまた、経験させていただける。そのことも保証する。しかし、実際に今キリストを信じて眠っている(肉体的に死んでいる)者がよみがえるのは、先の話です(23節)。同じように、キリストのよみがえりが保証する、さらなる恵みを経験するのもまた、先の話である。そのことをパウロはここで教えています。

2、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を廃止する

 では、キリストの復活が保証する、クリスチャンの未来とは何なのでしょうか。まず、この恵みには、「順序」があることをパウロは教えます(23節)。まず、死者のよみがえりについては、キリストが最初であり、次に「次にその来臨のときにキリストに属している人たち」という順序があります。そして、さらにその次があります。「キリストに属している人たち」がよみがえったならば、「キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます」とあります。この出来事が、今を生きる上で非常に重要な意味を持ってきます。なぜならば、今の世の中、今の社会は「あらゆる支配と、あらゆる権威、権力」が非常に強く見えるからです。

 この「あらゆる権威、権力」には、良い面と悪い面の二つがあります。良い面について、聖書は、この「あらゆる権威、権力」は、「あなたに益を与えるための、神のしもべ」だと言っています(ローマ13:4)。悪を行う者を罰し、善を行う者をほめ、奨励する。そのような役割を神から与えられている。それは、自分の国の権威者であっても、自分たちを支配する敵国の支配者であっても同じです。聖書は、民族主義を廃します。敵味方、人種、民族に関係なく、「あらゆる権威、権力」に従うよう勧めています。

 しかしそれと同時に、同じ「権威、権力」が、えこひいきをし、事実を歪め、良い人や弱い人苦しめ、神のことばを否定し、信じる者を迫害することがある。これもまた事実です。当時のコリントの町にも、そのような問題がありました。ですから、善を行って苦しむより、今の自分を誇り、今の自分が満足できる道を追い求めたのでしょう。それが、世の中でした。また、残念なことに、当時のコリント教会のクリスチャンたちも世とまったく変わらない。それどころか、さらに悪い生き方に陥ってしまっている人まで出てきたのです。その原因の一つは、「あらゆる権威、権力」が絶対的で、永続的なものだと勘違いしてしまったことです。しかし、この世の「権威、権力」が無実のイエスを十字架につけて殺した。そのイエスを神はよみがえらせたのです。そして、やがてそのキリストが「あらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡され」る時が来る。その時に、この世からあらゆる不公平、不正が取り除かれる。本当の平等と、正義と愛による支配が訪れる。そうであるならば、今、利己的な汚れた生き方、ずるい生き方をして満足を得るよりも、今理不尽な苦しみに悩んだとしても、正直で誠実な生き方、神に喜ばれる生き方をする方が幸いだとわかるのです。

3、キリストが権威を滅ぼすという信仰は争いを推奨しない

 しかし、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼ」すという教えは、カルト的で宗教戦争を引き起こしたり、反社会的な生き方を助長するのではないかと、考える人もいるかも知れません。しかし、実際は真逆です。

 そう言える理由の一つは、キリストが権威を滅ぼすと言われている出来事が起きるのは、肉体的に死んだクリスチャンがよみがえった後のことだからです。それが聖書の教える「順序」です(23~24節)。それ以前に、この出来事が起こることは、絶対にありません。ですから、クリスチャンがこの世の権力を滅ぼすために運動すべきではありません。むしろ、ローマ13章に書かれているように、この世の権力者は、神が立てられたしもべであるという信仰に立たなければなりません。

 また、何によりあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼすと言われているキリストご自身、その権威者による十字架刑を受けられたのです。たとえ、それが間違った裁判の結果であっても。しかし、イエスは十字架刑を受け、力であらがわれることはありませんでしたが、権力者に妥協もしませんでした。そのキリストが、最終的に全世界の王になられる。それを信じるということは、私たちも、理不尽な苦しみを甘んじて受けてでも、誠実な生き方、聖書に従う生き方をすべきだということです。今の人生だけで見るならば、それは損な生き方に見えるかも知れません。しかし、やがてキリストが来臨され、王として治めてくださるならば、それは決して損な生き方ではありません。かえって報い豊かな生き方です。ですから、この信仰こそが、力で力に対抗する生き方から私たちを自由にし、本当の意味で争いを取り去ることができるのです。

 そして、パウロ自身一度もローマに対して反抗することはなく、反抗するように教えたこともありませんでした。もし、キリスト教会と言いながら、自分はクリスチャンであると言いながら、これと違った生き方を教えているとしたら、それこそ、聖書の教えるキリストの復活の意味を見落としているのではないでしょうか。

4、復活のキリストが最後の敵として滅ぼすのは死

 そして、よみがえられたキリストが最後の敵として滅ぼされるのは「死」だと聖書は言います(26節)。死は、誰にでも平等にやってきます。それは平等に見えますが、最も不公平で理不尽とも言えます。なぜなら、自分の欲望のままに生き、人を苦しめ、悪を生きても、まじめに正しく、思いやりをもって生きても、結末はまったく同じ死であるならば、これほど不公平で空しいことはないからです(伝道者の書9:2~3)。

 しかし、キリストがこの「死」を滅ぼされるならば、この問題は解決されます。この「死」自体は、人間が神の約束を破り、罪を犯したゆえに人間が自ら呼び込んだものと言えますし、神ご自身が刑罰のために与えられたものとも言えます。ですからこの「死」を滅ぼすためには、この人間の罪の問題を解決しなければなりません。このことは、今回のテーマではないので詳しくは触れません。しかし、最終的には、キリストが最後の敵である死を滅ぼされる。だからこそ、寿命が長くても、短くても、聖書に従い、争いを捨て、善を行うこと、福音を伝えることで死期を早めることがあったとしても、それはまったく無駄にはならない(58節)。そう確信できるのです。

 今、話題とされる「無敵の人」は、自分のいのちの価値を実感出来ず、人のいのちさえ犠牲にすることをいといません。しかし、私たちの罪のために身代わりに死んでくださった方が、死を滅ぼされるという約束は、人のいのちを救うために自分のいのちをかける。そのような生き方を私たちにさせてくださるのです。

 そう言う私自身が、そのような生き方が出来ているかと問われれば、本当に悔い改めなければならないことが多くあります。しかし、この聖書の約束に目を留めるときに、神は必ずそのような生き方へと私たちを、あなたを導いてくださる。そのことは言えます。ですから、この聖書の約束、初穂としてのキリストの復活が保証する未来を信じ、そこに希望を置いていただきたいのです。