カテゴリー

みことばの糧25

2022年11月13日

いのちの源

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

ヨハネの福音書5:24~25

 

 普段、この「みことばの糧」では、できるだけ聖書そのものが持っているメッセージを文脈や歴史背景から汲み取ることを大切にしています。しかし、11月13日は、当教会では召天者記念礼拝を行うことに合わせて、今回はとくに「人のいのち」に焦点を当てたメッセージとさせていただきました。

1、人のいのちには源がある

 いのちというのは、本当に尊いものです。人間の科学がどれほど発達しようと「いのち」そのものを造り出すことはできません。自然に発生するものでもありません。私たちが生きているのは、親のいのちを受け継いだからです。ですから、親の存在なしに私の存在はないのです。親との関係が幸いな関係にある人にとっては、それは感謝なことであり、親との関係に悩んでおられる方には、つらいことかもしれません。しかし、私たちのいのちは、機械的に造り出されたのでも、偶然にできたのでもなく、心を持つ血の通った人間を通して産み出されてきたことは、人の存在価値において重要なことではないでしょうか。

 では、その親は誰からいのちを受け継いだのでしょうか。それを遡っていく時に、今の科学では偶然出来たと言います。しかし、いのちが地のちりから偶然できたのであれば、人のいのちはちりと同じに過ぎません。ある点で、聖書もまた人間は「大地のちり」から造られたことを教えています。しかし、人のいのちは、「大地のちり」で形造られただけでなく、神の「いのちの息」を吹き込まれて、「人は生きるものとなった」とも聖書は教えています(創世記2:7)。ですからすべての人間は、神が人にお与えになったいのちを親から受け継いで今、生きているのです。人間のいのちの源は神にあり、しかも人は「神のかたちとして」造られたと聖書は教えています(創世記1:26、27)。すべての人は、このいのちの源のゆえに、価値ある尊い存在なのです。その姿形、生まれ、性別、人種、能力に関係なくです。しかし、人は自分のいのちの源である神から離れ、神のことばに聞こうとしません。そのために、「神のいのちから遠く離れ」てしまいました(エペソ4:18)。そのために神の祝福を受けられず、地上の肉体が死ぬことが定められ、また死後もさばきを受けることが決まってしまったのです(ヘブル9:27)。神のいのちを持っていないので、神の御心に生きることができず、様々な問題を抱え、理不尽な人生を生き、やがて死ななければならないのです。そして、死んでも報いを受けるどころか、刑罰を受けなければならないのです。それは、人間のいのちの源であり、人間の価値の源である神から離れてしまったからです。しかし、本来のいのちの源である神に立ち返るならば人は、本来の神のいのちを身に宿すことができるのです。

2、イエスの内にある神のいのち

 そのことを踏まえて今日の箇所の文脈を読みますと、今まで見て来た神を源とする真のいのちは、イエスの中にこそあります。「それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。」(26節)。父なる神は、いのちを受け継いで初めて生きることのできる人間と違い、ご「自分のうちにいのちを持」っておられます。他の何ものにも頼らず、ご自分だけで永遠に生きること、存在することのできる方です(参考:出エジプト3:14)。イエスも本来神の御子であり、父なる神と同じようにご自分の内にいのちをもっているはずでした。しかし、私たちと同じ人間となられ、私たちと同じ肉体を持たれたのです。そのイエスは、私たち人間と同じように、神のいのちを離れては生きられない存在として地上を生きられたのです。ですから、イエスが十字架につけられたとき、確かに他の人間と同じように死なれたのです。三日目によみがえるまでは。しかし、イエスは神を離れた人間とは違い、「すべて父(なる神)がなさることを、子(イエス)も同様に行う」生き方をされました。それは、「父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはでき」ないという一見弱さとも、制約とも思える生き方です(19節)。これは、現代人にとって窮屈で、狭小な生き方に思えるかもしれません。けれども、そのように父と結び着いておられるからこそ、むしろ人間のしがらみから自由でした。人にこびることもなければ、逆に放縦になることもありませんでした。そして、父がいのちをご自分の内に持っておられるように、人間になられたイエスもご自分の内に、父と同じいのちを保ち続けました。だからこそ、「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように子もまた、与えたいと思う者にいのちを与え」ることもまたできるのです(21節)。このイエスの「ことばを聞いて」、イエスを「遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っている」のです(24節)。イエスが父のわざに生きられることを通して、イエスのうちに神のいのちが宿ったように、イエスのことばを聞いて信じる者も、イエスの持っておられるいのちを持つようになるからです。その証拠に、三十八年間も病で伏せ、良くなりたいと言う気力もなかった一人の人物が、自分から起き上がり、脚も癒やされ、イエスのことば通りに、「床を取り上げて歩き出」すことができたのです(9節)。命の源であるイエスのことばを聞いたからです。ですから、私たちもこのイエスのことばこそ、イエスを遣わされた天地万物の創造者なる神のことばであると信じ、そのことばに聞き従おうとするならば、私たちの内にもこのいのちが宿るのです。そのいのちが宿っているならば、地上の人生も神の御言葉に生き、豊かな力が与えられます。そして、肉体が死んでもなお、「よみがえっていのちを受ける」(29節)ときまで、キリストのいのちを宿し続けるのです。なぜなら、いのちの源である方と結びつき、そのことばによって生きるからです。

3、このいのちは肉体的死にも勝利する

 そして、このいのちは、私たちの地上の人生を確かなものとするだけでなく、肉体の死にさえも勝利するいのちです。なぜなら、「父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように子もまた、与えたいと思う者にいのちを与え」ることがおできになるからです(21節)。というのは、人間は本来死ぬ者として造られたのではなく、生き続ける者として造られたからです。現在でも、多くの人は、人間は必ず死ぬという事実を受け入れながらも、死んで終わりとは考えてはいません。死んだ後も、幽霊になったり、天国へ行ったりして、何らかの形で生き続けると、漠然と考えているのではないでしょうか。本当に死んで終わりだとしたら、それは非常に恐ろしいことであり、残酷なことです。ですから、多くの人は、その現実に目を留めず、「~であったらよいのに」という願望だけで、何の根拠もなく死後の人生を考えています。しかし、そのように何らかの形で生き続けるとしか考えることが出来ないこと自体、神が人間を永遠に生きる者として造られた証拠だと私は思います。伝道者の書3:11に「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」とあるとおりです。

 しかし、聖書は神を離れた人間にそのいのちはないという現実を厳しく伝えます。いのちの源である人間は、自分で生きることは出来ず、神から離れ、神に対して罪を犯した人間はその報いを受けなければならないからです。自分のいのちの源である方を認めず、離れ、求めようともしないこと自体が大きな罪なのです(ローマ1:28等)。だからこそ、多くの人は「永遠のいのち」と聞いても喜ぶことはなく、むしろ、長く生きることは苦痛と感じる方さえ多いことでしょう。神から離れた人間は、本当の意味で生きることを知らないからです。しかし、良くなりたいという思いさえ失っていた病人が、自分から立ち上がる気力と、立ち上がるだけの健康が神によって与えられました。それと同じように、キリストを信じ、キリストのことばによって生かされた人は、単にいのちが長らえるだけでなく、どれだけ年をとっても、身体が弱くなっても、生きる目的と気力を失わないのです。そして、やがてよみがえらされ、永遠のいのちを豊かに加えられるのです(マタ19:29等、聖書は永遠のいのちはキリストを信じたときに即座に与えられると言っていると同時に、ローマ6:22ではゴールとして、Ⅰテモテ6:12では獲得すべきものとして教えられています)。「遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っている」からです(24節)。さばきによって信じる者たちが受けるべき刑罰を、すべてキリストご自身がご自分の身に背負い、受けきってくださったからです。

 このキリストの内にこそ、私たちのいのちの源がある(コロサイ3:3)ことを信じるときに、私たちはこの世の悪い欲望や誘惑に対して強くされ、本当に必要なことであれば危険を冒しても積極的に生きることができます。そして、先に信じて地上のいのちを終えた人の人生も忘れず、希望を持って、尊んで行くことが出来るのです。

 人間のいのちの源は、造り主である神ご自身です。そして、私たちの罪の身代わりに十字架で苦しみ、死なれ、よみがえられたキリストの内にこそ、私たちの本当のいのちが宿っているのです。このいのちに生かされる人こそ、本当に人として輝くことができ、地上の人生においてどんな苦難の中でも望みを失わず、善を行うことに失望せず、死後にも望みを置くことが出来るのです。