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みことばの糧29

クリスマスにむけて―救い主到来の預言の成就3 ~闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る

しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。

イザヤ書9:1~2

 

 これも、預言者イザヤによる救い主到来の預言の一つです。イザヤはイエス・キリスト降誕の約700年前に救い主到来の預言をしました。その預言の通り、イエス・キリストは「ガリラヤ」地方のナザレで育ち、当時のイスラエルの中心地ユダヤ地方ではなく、ガリラヤ地方で多くのみわざを行いました。ガリラヤ地方の人たちは、ローマ人の圧政を受け、ユダ人の中でも蔑まれ、暗闇の中を歩んでいましたが、そのようなこの世の不条理の中で、彼らは最初に光を見たのです。生まれや育ち、環境が最悪であったとしても、なおそこから立ち上がらせる希望を見ました。しかし、この預言は単に救い主がガリラヤ地方で最初に活動をすることを言い当てるだけのものではありませんでした。ガリラヤ地方は、北イスラエル北部の地域にありましたが、この預言は北イスラエルと敵対していた南部ユダ王国に対して語られた預言だからです。その彼らに対する神からの重要なメッセージがここにあったのです。そして、それはユダヤ人だけでなく、自分は関係ないと思っている人を含む全世界のすべての人たちに対するメッセージでもあるのです。

1、自分から見て他人または敵に見える人に対して語られた救いの預言

 イザヤ8章と9章の間には、時間的に大きな開きがあります。8章は、ユダ王国がアラムと北イスラエルの脅威におびえるなかで語られた預言でした。しかし、この8章が語られた後、7:7の預言の一部が成就し、北イスラエルの北部、ゼブルン族とナフタリ族の地(ガリラヤ地方)がアッシリア軍の侵略を受けていました。それは、ユダ王国にとってはユダ王、アハズ王の思惑通り(Ⅱ列王記16:7~9)でしたし、自分たちの脅威が減少するというほっとする出来事だったでしょう。

 けれども、神はそのようにはご覧になりません。神は、アッシリアに占領されたガリラヤ地方にこそ、救いの光を照らすと約束されたのです。ガリラヤ地方は、アラムと組んでユダ王国に敵対した人たちです。何よりも、彼らが滅びたのは彼ら自身が、神に逆らい、外国の悪い習慣にならい、罪を犯し続けたためです(Ⅱ列王記17:7~8)。そして、滅びないようにという神の警告を無視し続けた結果です。けれども、神はそのような北イスラエルをお見捨てにならないのです。むしろ、彼らの苦しみをご覧になり、彼らを救い出す約束をされたのです。元はと言えば、彼らが神の警告を無視し、保身のために兄弟国であるユダに牙をむいた報いであり、当然の報いです。それでもなお、神は彼らの苦しみをご覧になり、救い出す約束をされたのです。

2、自分が招いた苦難にあえぐ者に対する救い

 しかし、そのような救いの約束を、北王国ではなく、なぜ南王国ユダに語られたのでしょうか(イザヤは、ユダ王国に対して遣わされた預言者)。それは、ユダ王国が自分は大丈夫だと思わないためです。彼らもまた、北イスラエルのように神に対して罪を犯し続け、不誠実な生き方をし、心を堅くして自分の間違いを認めず、悔い改めないならば、彼らにもまた同じ結末が待っている(参考ルカ13:2~3等)。北王国の経験している苦しみは、決して他人事ではなく、あなた自身の問題なのだ。そのことを伝える、神からの愛のこもった警告のメッセージだったのです。

 ですから、この預言は今の私たちにもメッセージを発しています。北王国は、神のことば通りこの後、完全に滅亡してしまいます。そして、ユダ王国も紀元70年にローマのティトゥス将軍によって滅ぼされ、1900年以上の間、歴史から姿を消しました。それは、私たちも自分の造り主である方、この神に背を向け続けるならば、同じ結末をたどることを警告しているのです。そのために、ある意味で神はご自分の選びの民と呼ばれたイスラエル人を犠牲にされたとも言えます(参考ローマ11:15~22等)。イスラエルは神の選民と言われますが、同じ罪を犯していても、彼らの方がある点で私たちより厳しい罰を受けたからです。聖書はある点でイスラエル人にとっては恥をさらす書のように思います。本来、どこの国も自分の国の歴史書は、都合の悪いことを伏せ、自国に都合の良い歴史だけを、しかも誇張して記すものだからです。けれども、聖書はイスラエルの成り立ちを記しますが、その記録は彼らの罪や失敗に満ちています。それは、まだ神を知らなかった私たちに対し、本当の神の厳しさと愛とを示すためだったのです。ある点で私たちを救うために、イスラエルを見本に、また犠牲にされたのです。ですから、私たちはこの北王国の滅亡が、ユダ王国に対して警告のメッセージを発する神の愛の警告であったと同様、私たちにもこのメッセージが語られていることを素直に受け止める必要があるのです。

3、自分が招いた苦難にあえぐ者に対する救い

 しかし、そのように自分事として受け止める時に、この箇所は大きな希望と喜びに満ちています。なぜなら、真っ先に罪を犯し、神に逆らい続け、自分の罪で滅びたガリラヤ地方に対し、神はまず「民は大きな光を」お見せになる、彼らの上にこそと約束「光が輝く」とされたからです(2節)。ガリラヤ地方は、自分自身の罪とかたくなさのゆえに、戦争のむごさ、外国人に踏みにじられる苦しみを経験しました。それだけでなく、混血が進み、首都から遠い辺境の地であったことも手伝って、自国の中でも最も蔑まれる立場となってしまいました。しかし、神は決して彼らを見捨てず、軽んじることもありませんでした。そのようなガリラヤ地方にこそ、神はまず最初に救い主到来の喜びをお与えになったのです。ガリラヤの無学な漁師が強くされ、ローマの手先となって荒稼ぎしていた取税人(ローマのために税金を集め、法外な手数料を取ることが認められていた)が悔い改め、弱い者が強くされ、多くの不治の病の人たちが癒やされたのです。ローマの圧政も自国民における評価も何も変わらない中で、聖い喜びと自由さと、行動力に満ちた人とされていったのです。神は、このように自分の問題で苦しむ人を決して、見捨てず、愛してくださる方なのです。私たちの最も醜い部分を知っていて、なお真実に向き合い、本当の解決を与えてくださる方なのです。

4、クリスマスの本当の光はここに

 このように、今もクリスマスは、北イスラエルの罪と滅亡を他人事と考えず、自分ごとと受け止める人たちに、光を照らすのです。この問題を無視して、クリスマスに喜びと楽しみだけを求めているならば、北イスラエルの滅亡を他人事と考え、イザヤの預言を無視し、自分たちは大丈夫だという偽りの平安を楽しんでいたユダ王国と同じです。確かに、手っ取り早い、今すぐ得られる楽しみが欲しいですし、それが自分を励まし、強めるように思います。けれども、そこに真の解決はありません。時に、その虚しい喜びは、人を傷つけ、自分自身の期待を裏切ることも少なくありません。しかし、イザヤ9:1~2は、自分の罪・汚れ・あやまちと誠実に向き合い、聖書のメッセージを自分事として受け止める人を、確実に立ち上がらせる、神の光なのです。祭りが終わってむなしさが残るのではなく、むしろ現実が何も変わらないなかで、真実な生き方を支える、神の力なのです。ぜひ、このイザヤ9:1~2節を自分事として受け止め、クリスマスの時を待ちわびていただきたいのです。私自身も含めて。