みことばの糧11
神の求めるまことの礼拝者 ~人が本当に求めるべき道~
しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
ヨハネの福音書4:23
人はしばしば、自分と相手、自分の属するグループと相手の属するグループのどちらが正しいかを気にします。気にすると言いつつ、実際は自分や自分のグループの立場が認められることを望みます。そして、そのことに自分の存在価値や生きがいを見出そうとすることが多いのではないでしょうか。しかし、多くの場合、どちらにも間違いがあります。少なくとも、相手と比較する時点で、本当に求めるべきものを見失ってしまいます。相手の間違いを指摘することが目的になり、真の解決を求めることができなくなってしまうのです。世の中で、政治家も福祉団体も本来同じ目的のために協力する仲間であるはずの人たち同士が争うのを見るのは本当に心が痛みます。その問題もここに原因があるのではないでしょうか。サマリア人は、まさにこの問題に悩み、メシヤ(サマリヤ人は「タヘブ」と呼んでいた)に解決を求めていました。彼女もサマリア人も、自分たちの宗教、礼拝スタイルが正しいと証明されるところに解決があると考えていました。しかし、イエスこそ彼女の求めていた問題に解決を与える救い主でした。イエスは、サマリア人とユダヤ人のどちらかに軍配を上げるのではなく、神ご自身の求める真の道、争いによらない真の解決の道を示してくださったのです。
自分たちが認められるところに解決を求めていたサマリア人
当時、サマリア人とユダヤ人は、同じ神を信じながら敵対関係にありました。彼らが敵対していた論点はいくつかありました。サマリア人の混血の問題、サマリア人は聖書の最初の5巻(モーセ五書または律法と呼ばれる)しか認めないこと、そして礼拝の場所でした(19節)。サマリア人は、礼拝の場所はゲリジム山だと信じ、ユダヤ人はそこから礼拝場をエルサレムに移して、イスラエルに分裂をもたらした反逆者のように考えていたようです。女性は、自分の最も悩む問題に目をとめてくださるイエスに対してこの方は「預言者」ではないかとの期待を抱き、彼女の民族とユダヤ人が解決し得ない問題をぶつけました。実際、サマリア人はメシヤ(タヘブ)さえ来てくだされば、この問題に解決を与え、敵対を取り除き、真の平和をもって治めてくださると期待していたようです。ただ、彼らがメシヤに期待したのは、自分たちこそ正しいと認められる事でしたが。
比較ではなく真実を求める道
この問題について、イエスは、ユダヤ人の正しい面を次のように表現します。「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝しています」(22節)。この点で、ユダヤ人に正しさがありました。しかし、ユダヤ人が正しいとは言いませんでした。本当に重要なのは、「ユダヤ人から出」た「救い」を受け入れるかどうかだからです。多くのユダヤ人は、エルサレムで礼拝しながらも、「ユダヤ人から出」た救い主を拒みました。礼拝場所が間違っていなくても、彼らが本当に求めるべき「救い」において、完全に反れていたのです。自分たちの罪を棚に上げ、ユダヤ民族を異民族から解放してくれる人物が救い主だと決めつけていたからです。
比較から解放され真実の自分を知る方と向き合う
しかし、それに対しサマリア人は、「救いはユダヤ人から出」ることを知りません(22節)。しかし、その彼女にイエスは、「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」と告げます(23節)。今彼女は「ユダヤ人から出」た救い主に、真実を明かされ、その方に期待し始めています。この彼女の姿こそ、「御霊と真理によって父を礼拝」しようとする姿だったのです。(23節)。イエスは、彼女が最も苦しむ問題、罪による問題に触れつつ(18節)、「永遠のいのちへの水」へと招きました(14節)。このように自分の最も醜く、弱く、悩む部分を知っておられるイエスの前に、彼女は隠すことも偽る事もできません。そして、その方に真の答えを求めようとする彼女の姿こそ、「御霊と真理(真実・裏表がないという意味もある)によ」る礼拝、「まことの礼拝」だったのです。聖書が指し示す真の救い主に、正直に向き合い、期待する姿です。神は、このような礼拝者を求めておられます(23節)。そして、このように「まことの礼拝」を持って救い主を信じる者に、神は彼女たちが期待した真実の道、和解の道、平和の道、喜びの道を教え、そこに導いてくださるのです。
まことの礼拝こそが真の解決へと導く
彼女はゲリジム山でもエルサレムでもない場所で、自分に水を求めるような弱い姿の人物に出会いました。その方こそ、「救いはユダヤ人から出」と言われていた、メシヤその方だったのです。その方こそ、彼女の最も弱い部分も含め「一切のことを」知らせてくださいました(25節)。それは、今まで彼女が求めていた答えではありませんでした。しかし、彼女が救い主を受け入れ、まことの礼拝へと導かれて行ったとき、ユダヤ人との敵対心は取り除かれ、今まで悩んできた結婚問題も解決しない状態でも、喜びに満ち、人前に堂々と出られる人に変えられて言ったのです。
当時のサマリア人は、礼拝の場所にこだわり、救い主が自分たちの正しさを証明してくださると期待していました。「神は霊ですから」、場所が本質的問題ではありません(24節)。しかし、もっと重要な事は、場所がどこでもよいという事ではなく、「御霊と真理によって礼拝」することなのです(24節)。
まことの礼拝者の幸い
私たちも、本質的ではないところで、人と比較したり、こだわったり、期待したりしていないでしょうか。そのように他の人やグループと比較して、自分の正しさが証明されることに期待するならば、ゲリジム山での礼拝を主張していたサマリア人と変わりありません。そこには、ひとときの満足はあるかもしれませんが、敵対、争い、失望、不安、同じ問題の繰り返しが絶えません。しかしサマリアの女性は、醜い罪の性質も、またその中にあっても正しい道を求め続ける、私たちの内面を探り極める方の御前に、向き合いました。そして、その方こそ「一切の」答えを「私たちに知らせてくださる」方と期待し、その言葉に耳を傾けました。このような姿こそ、まことの礼拝です。そして、神はその礼拝者にご自分の救いを見せ、経験させ、その人を通してこの地上に神の救いのわざを現してくださるのです。誰も見向きもしない一人の女性に、ご自分の偉大な真理とみわざを現されたように。そこにこそ、私たちが本当に求めるべき道、答え、平和、人生の価値があるのです。
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