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みことばの糧14

2022年8月28日

苦難の中にある希望を示す生きた証し

私の様子や私が何をしているかを、あなたがたにも分かってもらうために、愛する兄弟、主にある忠実な奉仕者であるティキコがすべてを知らせます。ティキコをあなたがたのもとに遣わすのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです。

エペソ人への手紙6:21~22

 何らかの成功をしている人、あるいは苦難を乗り越えた人の体験談は、人を励ますことがあります。けれども、聖書はまだ乗り越えていない、苦難のまっただ中にある人を通して人を励まします。神の国の力は、この世の力によらないからです。むしろ、「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」(1:19)は、どのような状況にあっても揺るぐことがありません。むしろ、困難な状況でこそ、その力は力強く現れ、他の人をも励ます力となるからです。

生ける手紙 ~聖書の言葉に従い その実を体験している者の姿~


 パウロは、この手紙の終わりに当たって「ティキコ」という弟子を「遣わす」と語ります(22節)。そして、その目的は「あなたがたが私たちの様子を知って、心に励ましを受けるため」だと言うのです(22節)。この言葉は、この手紙を書いている当時のパウロの状況を思う時に、非常に驚くべき言葉です。なぜなら、この手紙を書いている時のパウロは、福音のためにローマによって投獄され、「鎖につながれ」ていたからです(20節)。しかも19~20節で言っているようにエペソ教会の祈りを必要としている状態でした。それでもなお、パウロの「様子」とパウロが「何をしているか」がエペソ教会に伝わるならば、エペソ教会にとって大きな励ましになるとパウロは確信していたのです。

苦難の中でも主に従う者に働く神の力


 それは、「鎖につならがれ」るという不自由で苦しく、卑しい状態で、「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力」をパウロ自身が経験していたからに他なりません。パウロは、エペソ教会に対し、妻は夫に従い(5:22)、子は両親に従い(6:1)、奴隷は主人に真心から従うように(6:5)教えました。このような教えは、現代において不平等だと思われるだけでなく、当時ローマの支配下にあったエペソ人にとっても、屈辱的で、不公平に思えたに違いありません。もし、パウロが順風満帆の状況からこの教えを語ったのならば、この教えに力は感じられず、非現実的に響いたかもしれません。しかし、パウロ自身、鎖につながれるという奴隷以上に卑しい状態で、「主にある囚人」(4:1)として、その状況を受け入れました。そして、その状況のなかで不平を言うことなく、そこが今遣わされた場所だと信じ、精一杯主キリストにお仕えしたのです(参考19、20節)。そのときの、パウロの平安、喜び、力強さは、身近にいた「ティキコ」がありのままに見ていました。パウロ自身が、最も低く、苦しい状況で、主にお仕えすることの幸いと力強さを経験していた。だからこそ、この教えを、絵に描いた餅ではなく、自分自身が体験している現実のものとして伝えることができたのです。また、「ティキコ」自身も、周囲の人が白い目で見るような牢で、「主に」あって「忠実」にパウロに仕えました。当時、ローマによって投獄されるということは、非常な恥辱であり、できればそのような人に近づきたくないと誰もが思うような状況だったにもかかわらずにです(参考Ⅱテモテ1:15~18)。その「ティキコ」をパウロは、「奉仕者」であるとともに「愛する兄弟」として尊敬していました。まさに、パウロが6章前半で教えた関係を、パウロたち自身が現実のものとして築き上げていたのです。そのような意味で、まさに「ティキコ」は、生ける「エペソ人への手紙」だったのです。

生ける手紙として生きる幸い


 このように、私たちもイエス・キリストを信じているならば順境の時も逆境の時も、福音の力強さを伝える、生きた手紙となれるのです。苦難の中で、互いに人のせいにし、欠点を指摘しあっているならば、「悪魔の策略」に陥ってしまいます(11節)。むしろ、逆境の時こそ、神に従い、教会においてもこの世においても身を低くして隣人にお仕えし、キリストのご支配に希望を置く。そのときに、主権者である神ご自身が、私たちの弱さを通して、ご自分の「大能の力」を存分に現してくださるのです。御言葉に信頼し、従う者の幸いと力強さを経験させてくださるのです。

 現代も当時のエペソの風潮と同じように、仕える生き方よりも、目に見える成果を上げ、人気を得るところに幸いや価値があると思われる時代ではないでしょうか。しかし、神の大能の力は、この世が期待しない、むしろ恥とも思ってしまう中に、力強く現れるのです。御言葉に信頼し、従う人は、その神の大能の力、「すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられ」た(1:22)キリストの力を経験します。そしてその人自身が、周囲の人を励ます力となるのです。

 順風満帆で、目に見える成果を上げることが信仰を励ます訳ではありません。悪条件の中でも、互いに仕え合い、福音を土台として愛し合い、自分ではなく神の主権に信頼して誠実に仕え、福音を告白し続ける地道な生き方こそが、神の力を現し、信仰を励まし、「信仰に伴う、平安と愛」(23節)を伝える器として用いられるのです。