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みことばの糧57

プラス思考の落とし穴 ~できていないことへの認識不足が高慢や争いを生む~

こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。ヤコブの手紙4:17

 自分の出来ていないことばかりに目を向ける思考は、しばしば人を落ち込ませ、成長の芽を摘んでしまうように思われます。それよりも、出来ていることを数え、未来を楽観視し、「自分はできる」「大丈夫だ」と言い聞かせる。そのような思考回路が、希望を抱かせ、人を成長させる。そのような考え方が人気を得、主流派であるように思います。また、クリスチャンもこのようにプラス思考で生きることが信仰であるかのように思っていることが多いのではないでしょうか。

 しかし、本当にそうでしょうか。先日ラジオを聞いていましたら、陸上選手の息子を持つ母親が、元オリンピック選手や脳科学者のアドバイスを求めていました。その母親の息子さんは、練習にも熱心だけれど、強い先輩などを見ると、勝てないと決めつけてしまう。そうでなはく、「勝てる」と思い込まなければ勝てるようにはなれない。だから、もっとプラス思考になれるようになるには、母親として何ができるかという相談でした。しかし、そのような相談に対して、元オリンピック選手のゲストは、意外な答えをしました。実は、オリンピック選手には、その息子さんのように、試合の直前まで、「勝てない。勝てない。」と言っている人が、多くいると言うのです。そして、「勝てない」と言いながら、そういう人が勝ってしまう。しかし、そのような声は、なかなかメディアには、取り上げられないのだそうです。むしろ、否定的に考える人は、現実をよく見ており、その問題を乗り越えるために的確な練習をする。だから、強いのだ。そのようなことを助言していました。

 冒頭の聖書箇所を含む、ヤコブ4:13~17もまた、これと似た真理を教えています。自分の出来ていないところに目を留める。そこにこそ、正しく自分を知り、人の悪口を言う罪から守られ、平和をつくる道がある。そして、そのような人に、聖書は、神は、揺るがない希望を約束しているのです。

1、楽観的な希望と争いの関係

 ヤコブは、4:13で突然商売の話しを始めます。「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言っている人に対して、警告するのです。「なたがたは、明日のことは分か」らない存在であり、「あなたがたのいのちとは……しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧」にす過ぎないと(4:14)。この言葉は、一見商売人に対する警告のように見えます。しかし、この言葉は、「あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか」という文脈の流れで書かれています(4:1)。さらに、この段落のまとめで、「こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です」(17節)と言っています。つまり、「なすべき良いことを知っていながら行わない」ことが罪だという認識がない人の現状を示すために、13節が書かれています。そして、自分の罪に気づかないために、人は高慢になり(12節)、そのために「互いに悪口」を言ってしまう(11節)。この問題が、「争い」を生むのだ(1節)と解き明かしているのです。ですから13節の商売の話しは、商売人にだけ言っているのではなく、すべての人、とくにヤコブが手紙を書いた宛て先である、教会のクリスチャン、とくに争いを生む人たちに言っていることがわかります。

 では、ヤコブは、「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」という商売人の話から、何を示そうとしているのでしょうか。これは、計画を立てることが悪いと言っているわけではありません。商売で儲けてはいけないと言っているわけでもありません。このような考え方をしている人たちに、ヤコブは「あなたがたのいのちとは……しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧」に過ぎないと(4:14)指摘しました。つまり、商売の計画を立てるのはいい。けれども、その商売がうまく行くのかどうか、人間に決定権はない。儲けられない可能性もあることを認めなければならに。儲けられたとしても、長い歴史から見れば、その利益は、非常に小さなことに過ぎない。長くて100年ほどしか生きられない人間ができることは、限られている。しかも、その100年でさえ、突然、病に倒れることも、不景気にあえぐこともある。勿論、大成功することもあるかもしれない。どちらにしても、それほど不確定要素が多く、成功したとしても、その成功がもたらすものは、限定的。

 それにもかかわらず、今後1年間の利益に期待して自分を励ますのは、あまりにも空虚な望みだ。しかも、狸の皮算用のように、その利益をすでに得たかのように誇ることは、非現実的であり、偽りであり、高慢と言わざるを得ない(16節)。そう言っているのです。

 そして、その結論として17節で「こういうわけで、なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です」とヤコブは語るのです。ということは、ヤコブが言いたかったのは、金銭的な「もうけ」のことではありません。そうではなく、自分ができていることだけを数え、まるで自分が罪を犯していないように安心している人たちに対する警告なのです。

2、なすべきこと良いことを知りながら行わない罪

 そして、この警告は、キリストの十字架を信じ、罪を赦されたはずのクリスチャンたちに対して語られています(11節)。「悪口」を言う人は、自分が出来ているかのように思っているからです。しかし、出来ているように思うのは、出来ている面だけを数えるからです。しかし、「なすべき良いことを知っていながら行わない」ことも罪だとしたらどうでしょうか。神の御前には、この世の法律が禁じていることを行わなければ、無罪なのではありません。また、聖書が禁じていることを行わなければ、無罪というわけでもありません。聖書の律法は、『「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法』なのです(2:8)。それは、非常に積極的な律法です。聖書に規定されていなくても人の助けになる、そのために自分が果たせる役割がある。そして、今自分にはそれをする力があり、それをなすべきである。そうならば、積極的に行う。それが、聖書の律法の本質であり、イエス・キリストの生き方でした。イエス・キリストの生き方は、まさに積極的で愛に満ちていました。ご自分を信頼して来た人を、誰一人何の解決もなく帰したりしませんでした。ときには自分が頼む力を失っている人さえ、救われました(ヨハネ5:2~14、ルカ7:11~17)。触れれば「汚れた」と言われてしまう。ツァラアトにおかされた人の患部に素手で触れながら癒やされたこともありました(マタイ8:3)。

 私など、普通に考えてもできていないことが多いと思ってしまいます。まして、イエス・キリストと比べたら、本当にできていないことだらけです。そして、それは「罪」なのです。イエス・キリストはこの「罪」のためにも、十字架に架かって苦しみ、死んでくださいました。そのことを覚えたら、どうして他の人の悪口など言えるでしょうか。悪口を言う人は、自分の積極的責任に目をつむって、人の問題ばかりに目を向ける評論家になってしまっています。まさに、そのような生き方こそ、罪人です。この現実に目を留めるように、聖書は教えているのです。そして、この現実に目を留めるとき、私たちは高慢の罪から守られ、本当に人を思いやる愛が起こされ、平和をつくることができます。そして、この愛が起こされることで、本当の意味で律法を成就することができるようになるのです。

3、できていないことに目を留める者に約束されている揺るがない希望

 しかし、自分のできないことばかり数えていたら、消極的な生き方になってしまうのではないでしょうか。いいえ。聖書の救い、約束は、そのように自分の罪をありのまま認める者に、揺るがない希望を与えていてくれます。その希望については、5:7~11に書かれています。この希望については、今回の箇所から離れますので、今回は詳しくは書きません。ただ言えるのは、そのように自分のできていないことを謙虚に認め、キリストの十字架に頼り、自分のなすべきことを地道に行っていく。そのような生き方をするならば、必ず神が報いてくださるということです。農夫が畑に種をまくと、その種が芽を出し、成長し、実をつけるには、非常に長い時間を要します。そのように神から来る報いは、来年のもうけに期待する商売人のようには、すぐに受けられません。しかし、商売人の計画のようなあやふやなものではありません。また、せいぜい100年ほどしか生きられない人間が与えるような、わずかな報いでもありません。明日を司る神からの確実な報いです。そして、永遠に生き、死んだ者をもよみがえらせる神からの、途方もない報いなのです。私たちの働きに見合わない程の報いを与えたいと願う、神の気前の良い、恵みに満ちた報いなのです(マタイ20:1~16)

 ですから、聖書から神の愛ときよさを教えられ、自分の出来ていないことに向き合っていくところに、平和で真実な道があります。そして、キリストによる十字架による赦しと、将来的な神の報いに希望を置くところに、揺るがない希望があります。自分の出来ていないことに目を留めず、楽観的で曖昧に希望を置くのではなく、自分の足らなさ、罪を認めつつ、神の救いと、約束に希望をもつ生き方を追い求めて行きたい。追い求めていただきたい。そこにこそ、本当に希望に満ちた、幸いがある。聖書は、そう教えているからです。