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みことばの糧56

イエスのことばは人の心の底にあるものをあらわにする ~いのちを求める者にはいのちを与える救い主~

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。ヨハネの福音書6:63

 商品を売る人は、人の心を惹きつけるキャッチコピーを工夫します。教会でさえ、しばしばそのようなキャッチコピーに力を注ぎ、それが神のために役に立つとか、人の救いのために役に立つと考えます。かくいう私も、少しでも関心を持ってもらいたい、よく思われたいという思いを持っています。ところが、このヨハネ6章で語られたイエスのことばは、そのように考える私たちから見ると、驚かざるを得ません。なぜなら、聞く人が信じたくなくなる言葉ばかりを語っているからです。とくに、51, 53~58節の言葉は、当時のユダヤ人には、聞くに堪えない言葉でした。このイエスのことばによって、すでに弟子になっていた者でさえ、「多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった」ほどです(66節)。まるで、敢えてご自分を信じさせないように、信じている人まで追い出しているようにさえ見えるほどです。それでもなお、ヨハネはこの言葉も含めて、この福音書は、「イエスが神の子キリストであることを、あなた方が信じ、…イエスの名によっていのちを得るため」に書かれたと言うのです(20:31)。

 なぜでしょうか。ここにこそ、人をまことのいのちから引き離す問題が隠れているからです。医師も正確な治療をするためには、正確な病状を明らかにしなければなりません。たとえ、それが患者にとって見たくない、聞きたくない情報であってもです。聖書は、心の鏡とも言われます。イエスは敢えて、人の心の内にあるものをえぐり出し、本当の救い、本当のいのちを得させてくださる方なのです。

1、あえて人がつまずく言葉を語るイエス

 前置きでは、イエスが多くの弟子たちをつまづかせた言葉を、あえて記しませんでした。それは、この言葉は、非常に誤解を生みやすい言葉だからです。それは、53~54に代表される言葉です。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」。この言葉は、もちろん実際にイエスの生き血を飲むとか、肉体を食べるとかいう意味ではありません。冒頭に掲載したようにイエスご自身63節で「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです」と言っておられるとおりです。しかし、イエスは敢えて聞く人が誤解するように語っているようなのです。なぜならば、とくに54節で「わたしの肉を食べ」と言う時に使われている「食べる」という言葉は、原語のギリシャ語では「かじる」とう意味も持つことばで、何度も習慣的に食べるという文法表現がされているからです。つまり、イエスのことばを当時の人がそのまま聞けば、がつがつむしゃむしゃ、口で咀嚼しながら食べる様子をイメージしてしまう、そのような表現をされたのです。それは、「多くの者が離れ去」るのも当然だと思ってしまいます。しかし、イエスは、あえてそう語らなければならなかったのです。現代のクリスチャンが、その場にいたら、「イエス様、何てことを言うんですか。そんなこと言ったら、誤解されてしまうではないですか。ちゃんとわかるように説明してくださいよ。そんなことを言っていると、誰も信じてくれませんよ!!」、そう言う人も少なくないように思います。

 それでも、聖書は、このイエスのことばも含めて、「福音」(良い知らせ)と伝えるのです。このことばを語られたイエスこそ、救い主だと私たちに教えているのです。ですから、私たちも、この言葉を受け入れ、なぜ、イエスがあえてこのような言い方をされたのかに目を留める必要があります。

2、イエスのことばは人の心の奥底にあるものを探る

 では、イエスはなぜ、このような言い方、グロテスクで異教的ともとれてしまう言い方をされたのでしょうか。それは、この言葉を聞いた人が、「天からのパン」(31節)、「まことのパン」(32節)、「世にいのちを与えるもの」(33節)とは、どのようなパンだと理解しているかを問うためだったのです。つまり、彼らが人として生きて行くために、いのちを維持するために、最も必要なものは何だと考えているか。救い主が、何を与えてくれると期待しているか。そのことを明らかにするためだったのです。

 彼らは、聖書を信じていました。聖書が記す神を信じていました。そして、66節で記されているように、聞いた人の多くはイエスを信じていました。けれども、彼らは物質的なものにしか期待していなかったのです。彼らにとって、いのちを支えるのに最も必要なものは物質的なパンと水、そして救い主に期待するものは、物理的な支配者であるローマ人からの開放。これを与えてくれなければ救い主ではなく、この問題が解決できなければ生きていけない、生きる意味がない。そう考えていたのです。だからこそ、イエスが「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」と言われたとき、人肉をイメージしてしまったのです。イエスがそのように仕向けられたのです。彼らが求めているものが間違っていることを示すためです。

 聖書は、私たちの心の奥底にあるものを探ります。私たちの求めているものが間違っていれば、聖書は私たちに醜く見えるものを示し、私たちを救い主から引き離してしまいます。それは、救い主が醜いのではなく、私たちの心の奥底にある動機が醜いからです。けれども、私たちの動機がきよく、本当に良いものを求めるならば、聖書は、救い主は、必ずその人にいのちを与えます。Ⅱコリント2:16にもこう書かれている通りです。「(キリストを知る知識の香りは)滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです」。

 ですから、私たちは、まず自分が何を期待しているか、自分のいのちに最も必要なものは何か、そのことを吟味し、問う必要があるのです。聖書は、イエス・キリストの内に、そのすべてがあると教えています。私たちは、まずそこに耳を傾ける必要があります。自分が正しいと思っている人には、理解出来ません。「父が与えてくださらないかぎり、だれもわたしのもとに来ることはできない」(65節)のです。

 確かに、私たちの肉体のためには、物質的食事も水も必要です。しかし、そのすべての源である方が語られる言葉に、私たちは耳を傾ける必要があるのです。自分のわずかな経験で頭ごなしに否定してしまっては、何も見えません。そのことを示すために、イエスは敢えて誤解するような言葉で語られたのです。 

3、罪による滅びから救うまことの糧

 では、イエスが語られた「人の子の肉を食べ、その血を飲」むとは、どういう意味なのでしょうか。ヨハネは4節で、このイエスの教えは過越の祭り間近に語られたと教えています。ユダヤ人は過ぎ越しの祭りの時、小羊の肉を食べ、ぶどう酒を飲みました。この小羊は、彼らの神に対する罪の身代わりでした。かつてイスラエルがエジプトを脱出するとき、この小羊の血を門柱と鴨居に塗った家だけ、滅び(長男の死)から免れました(出エジプト記12章)。この血を塗らなければ、エジプト人だけでなく、イスラエル人の家にも滅びが来たのです。それは、エジプト人だけでなく、イスラエル人も神の御前には罪人であったからです。ですから、イスラエル人たちは、この出来事を「主はエジプトにいたイスラエルの子らの家を過ぎ越して、私たちの家々を救ってくださった」と伝え、過ぎ越しの祭りを祝うのです(出エジプト12:27)。そして、その羊の肉を食べて、滅ぼされるはずだった私たちが、羊の犠牲によっていのちが与えられたことを記念したのです。この過ぎ越しの子羊こそキリストだったのです(ヨハネ1:29、Ⅰコリ5:7)。つまり、イエスの肉を食べ、イエスの血を飲むとは、過ぎ越しの小羊が、イスラエル人の罪の身代わりとなって、滅びから救い、いのちを与えたように、キリストの十字架の身代わりが、信じるものに罪の赦しと、永遠のいのちを与えてくださる。このいのちこそ、私たちに本当に必要ないのちだということなのです。

4、人生に価値を与えるまことの糧

 53節の「人の子の肉を食べ、その血を飲」むは、このキリストの十字架が、私の罪のためだと信じる信仰を指していると言えます。なぜなら、53節の「食べ」「飲」むという言葉は、一回限りの出来事を指す文法が使われているからです。しかし、54, 55節は違います。繰り返し、習慣的に食べ、飲むという表現が使われているのです。しかも、前に触れたように、歯で咀嚼しながら食べる、つまり動きのある表現が使われています。これは、キリストの十字架を信じて救われるという、一回限りの出来事ではありません。では、どういうことなのでしょうか。イエスは57節で「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きる」と言っています。これは、勿論十字架の事ではありません。イエスに罪はなく、父は十字架に架かったりしないからです。では、どういうことでしょうか。イエスは、かつてサマリアで昼食を摂らず空腹だったときに、サマリア人の女性を救いに導き「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです」と言われました(34節)。同じように、私たちもイエスの遣わされ、イエスの御心を行うことによって生きられるのです。そこには、私たちが人のいのちのために役に立つ道があります。そして、その働きを実行していくときに、物質的な必要も満たされていきます。イエスのことばに従った弟子たちが、嵐の中でも目的地に着けたように(21節)。

 このまことの糧がなければ、私たちは生きている意味を見失い、自己中心的な生き方に陥り、空しい生き方をしてしまいます。そして、やがて神の御前に立つときに、神の御前に何をしたかが問われる時が来るのです。

 しかし、イエス・キリストを信じ、イエスのことばに従い、御心を行う時に、私たちはどのような時も、自分が生まれて来た意味、目的に従って生きることができます。たとえ、どれほど困難で、何を失っても、どれだけ年をとってもです。まことのパン、いのちの水はつきることがなく、救い主が責任を持ってくださるのです。このイエスにこそ、あなたが生きるために必要なものが、すべてあるのです。人が生きていくためにもっとも必要なもの、それを持っておられるのがイエス・キリストです。物質的、感情的、感覚的必要よりも、もっと重要なものがここにあるのです。キリストこそ、人のいのちを生かす、まことの糧なのです。

 ぜひ、この方にこそ、いのちの糧があることを信じ、求めて頂きたいのです。刹那的で物質的な、感覚的なものしか求めないのであれば、聖書は何ももたらしません。しかし、いのちの糧、いのちの水を求めるならば、救い主は、あなたに豊かに、そして永遠に与えてくださるのです。