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みことばの糧48

2023年6月4日

聖霊による心の一新 ~約束を成就させる神~

はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──のことば。」エレミヤ31:37

 前回見たように、人の動機が変えられ、心が変えられるならば、様々な問題は解決されます。この世の様々な問題は、究極的には、一人一人の心の性質に端を発しているからです。心の持ちようで解決できるということではありません。様々な自己中心的思い、不忠実、不誠実、悪意、必要以上の欲求、ねたみ、不必要な邪推、怠慢など。そのような思いが、あらゆる問題を引き起こします。さらには、それらが世において力関係を歪め、歯車として噛み合い、構造的な問題となってしまう時に、その問題を解決するのは、並大抵な事ではありません。しかし、その問題の根源である一人一人の心の問題が解決されるならば、社会の歪みもまた、解決されていく。

 ただ、多くの人は、それは不可能だ、非現実的だと言うでしょう。人の心の問題ほど、難しい問題はないからです。自分の心でさえ思うようになりません。自分を変えようと決心し、今日から、明日から始めようと決心しても、それを継続することは容易ではありません。とくに自分の弱いところ、悪い癖、長い間続けてきた習慣を変えることは、並大抵のことではありません。まして、人の心を変える事など、不可能に近いと言って良いでしょう。しかし、人にはできなくとも、神にはできます。それは、人間がおだてたり脅したりして、人をコントロールするのとは違います。心理学的な手法を用いるのとも違います。キリスト教が、それを成し遂げられるというのでもありません。神ご自身の深いご計画と、聖霊の働きが、私たちの思いをはるかに超える時と方法で実現される。今日の箇所は、その神の約束が宣言され、記されている箇所です。

1、神の約束が信じられない現実

 この預言がなされた時代、イスラエル人、中でも南王国ユダに属するユダヤ人の心が変えられるとは、とても信じられないのが現実でした。神は、ユダ王国を罰しないでもすむように、エレミヤを通して再三、ユダの民に悔い改めを勧めました。ところが彼らは悔い改めるどころか、神の言葉を告げるエレミヤを悪者のように扱い、迫害しました。彼らは、悔い改めを勧める神の言葉に、神の愛を見ず、警告を悪意としか受け止められなかったからです。そして、そのような彼らの心の頑なさは、この31章の御言葉が与えられた後も続きました。36章を見ますと、神は彼らを赦したいと願い、エレミヤを通して悔い改め、神の律法に立ち返ることを勧める言葉を伝えます。エレミヤは、牢にとらえられていましたので、神の言葉をすべて記し、書記バルクに神殿で読み上げさせ、すべての民に聞こえるようにしました。ユダ王国の首長たちも、エレミヤに同意しました。しかし、彼らがその神の言葉を王に報告した時、王は悔い改めるどころか、それらをすべて小刀で切り裂き、燃やしてしまったのです。王の家来たちも、王にならいました。国を指導する王や家来たちが、悔い改めず、むしろ神の言葉を否定してしまう。そのような状況でユダの民が悔い改めるのは、絶望的な状況でした。31:33の「わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。この言葉が実現すれば、幸いです。けれども、現実はそれとは真逆に進んでいるように見えました。神の言葉に従い、悔い改める者たちが、かえって迫害を受け、非国民のように見なされていく。絶望的な状況だったのです。そして、ついに神が警告されたとおり、ユダ王国はバビロンによって攻め落とされ、国もエルサレムも滅び、民は捕囚として捕らえ移されてしまったのです。

2、約束通りイスラエルを回復させた神

 しかし、神の言葉は確かに実現していきました。この31章の38~40節でエレミヤは、必ずエルサレムの都と城壁が再建されること預言しました。まだ、エルサレムも城壁も滅んでいないときに。そしてこのことば通り、エルサレム陥落から約七〇年後を皮切りとしてエルサレム、神殿は再建され(エズラ記)、城壁も再建されていったのです(ネヘミヤ記)。この約束が実現するためには、大勢の人の心が動かなければなりませんでした。ペルシャ王キュロスが許可を出さなければなりませんでした(エルサレム陥落当時はバビロンが支配していましたが、後にバビロンがメドペルシャに取って代わられました)。また、ユダの民たちもまた、住み慣れたバビロンを離れ、エルサレムに帰還し、神殿や城壁を再建するという決心をしなければなりませんでした。70年も経てば世代も変わり、話す言語も捕囚先に合わせて変えられ、ユダの土地は荒れ果ててしまっています。たとえ先祖の地とは言え、住み慣れ、安定した生活を捨てて、家も畑もない場所で生活を立て直し、さらに神殿や、石で出来た城壁を立て直すというのは、並大抵のことではなかったからです。それでもなお、神の約束は実現したのです。キュロス王が、神殿再建を命じ(エズラ1:1~4)、その命令に従う決心をする者が起こされ(エズラ1:5等)、荒れ果てたエルサレムに帰還していったのです。とくに城壁再建においては、各自が住まいを定めた近くの城壁を、自主的に再建する作業に取りかかりました。また、彼らの多くは聖書の律法を忘れ、バビロンでの生活に馴染み、無自覚に罪を犯していましたが、エズラたちが聖書の律法を朗読するのを聞き(ネヘミヤ8章)、またネヘミヤ勧めた悔い改めに従い(ネヘミヤ5章、13章等)、言い訳せずに悔い改めたのです。神は、約束通り多くの人の心を動かされたのです。

3、この神の約束が今も人の心を変える

 しかし、これは31:33の完全な成就ではありません。エルサレムに帰還した民は、以前のようなあからさまな偶像崇拝に陥ることはありませんでしたが、律法を歪め、形式上は信仰的でも心は神から離れて行きました(マラキ書等)。しかし、イエス・キリストが遣わされ、十字架で死なれ、よみがえられ、天に昇られたとき、キリストを信じるすべての者に聖霊が降りました。その時、一人一人が心から変えられ、かつてのような形式主義に陥ることなく、一人一人が自主的に神を信じ、聖書を信じ、神に従っていきました。聖霊が彼らの内に住み、心の中から変えてくださったからです。うわべの行いで認められるためではなく、私たちの罪の身代わりにいのちまで捨ててくださった神を愛し、その感謝と愛によって、神に従う者へと変えられていったのです。

 それでもなお、やはり31:33の御言葉が完全に成就するのは、信じがたい現実がある。それは変わっていません。ネヘミヤの時代、一人一人が悔い改めようとしても、王や権力者たちがそれを拒み、民を間違った方向へ誘いました。今も、様々な世界情勢、組織、しがらみ等が、聖書に従うことを妨げます。世の中の様々な誘惑自分の内にある罪の性質、保身の誘惑が妨げます。自分自身の弱さが立ちはだかります。

 それでもなお、イエス・キリストを信じた者は、罪の赦しという支えがあります。その人の内に住む聖霊が、罪を悔い改め、神を信頼し、善をしたい、神と隣人を愛する思いを与えてくれます。そして、キリストの再臨の時に、その罪の性質も完全に取り除いて頂ける。これは、私たちの意志の力ではなく、社会改革、制度、組織の問題でもなく、神ご自身が成し遂げてくださるのです。

4、神の約束の確かさに信頼と希望を置く

 神は、絶望的な状態にあったイスラエルの民、ユダの民の心さえ変え、約束を実現されました。彼らを支配していたペルシャ王キュロスの心にも、エルサレム神殿再建の思いを与えられました。そこには、人の策略や、心理的誘導、おだてや脅しといった、人間のはかりごとは一つもありません。人の思いを超えた、神のご計画がそれを成し遂げたのです。そうであるならば、今私たちの心を新たにするという約束、そして、将来完全にしてくださるという約束、それもまた必ず実現するのです。神ご自身が実現してくださるのです。人にはできなくても、神には出来るのです。

 「主はこう言われる。もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける」。今でも宇宙を測り切れる人は誰もいません。ならば、神はイスラエルの先祖の故に退けることは、絶対にない。彼らの心を変えて、罪を赦し、御心にかなう者とし、回復させる。その通りに、神はバビロン捕囚なり、国も神殿も失った民を回復されました。心を頑なにし、社会構造的にも腐敗してしまったイスラエルさえ、神は回復させました。そうであるならば、神は今もこのことば通り、あらゆる人の心を変え、罪(神の律法に対する)を赦し、回復させてくださるのです。たとえどれだけ時代の流れが強くとも、自分の心が弱くとも。この神の約束を信じて頂きたいのです。この神の約束を信じる信仰が、あなたを救い、聖め、強くし、守ってくれるのです。