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みことばの糧61

言葉の説得力に頼らず 言葉と行いと信仰を一致させる

私の兄弟たち。とりわけ、誓うことはやめなさい。天にかけても地にかけても、ほかの何にかけても誓ってはいけません。あなたがたの「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」でありなさい。そうすれば、さばきにあうことはありません。ヤコブの手紙5:12

 自分自身や自分が勧めるものの良さを認めてもらいたいとき、私たちはしばしば言葉を工夫します。いかに短い言葉で、心を惹きつけるか。そのような事に、エネルギーを注ぎます。とくにネットが盛んになった現代では、その傾向が今まで以上に強いように思います。さらに、最近はことばだけでなく、短い動画の演出で人の心をとらえようとする向きも強いのではないでしょうか。確かにそのような方法で、一時的に人の心を惹きつけるかも知れません。

 本来ならば、行動を見て、結果を見て信頼してもらうのが一番です。しかし、そのような方法はかなりの時間を必要としますし、肝心な時に見てもらえないことが多いものです。また、見ようという関心自体が起きないならば、見てもらうことさえできない。そのため、いかに短い言葉で人を説得するか。そのことが今も多くの人の重要関心事ですし、それは二千年前も同じでした。当時の人が、手っ取り早く人の信頼を得ようと頻繁に使った方法が、「誓い」でした。自分より優れたものをさして誓う事で、自分の主張、教え、約束を認めてもらおうとしたのです。しかし、聖書は「とりわけ、誓うことはやめなさい」と言います。手っ取り早い言葉の説得力に頼ってはならない。地道に、言葉を行動に移す者に神は報いてくださる。聖書の教えは、その教えを地道に実行していくところにこそ、実を結ぶ。そこにこそ、幸いがあるのだと教えているのです。

1、当時の誓いは、自分を信じてもらうための方便であった

 まず、聖書が「誓ってはならない」と言うのは、約束そのものをしてはならないとか、誓いを立てることで、自分をそこに従わせていくこと自体を禁じているわけではありません。旧約聖書に見られる誓いは、しばしば神と自分自身の個人的関係においてなされるものでした。例えば、創世記28:20~22において、ヤコブは神に誓願を立てます(ヤコブの手紙の著者のヤコブではなく、アブラハムの孫)。その誓願とは、神が約束通りにしてくださったとき、神に感謝の礼拝を捧げ、神を「私の神」として、生涯個人的に心を尽くしていくという約束でした。この誓願は、人に聞かせるためではなく、神ご自身に対する強い決心の表明でした。

 しかし、ここでヤコブ(この手紙の著者)が禁じているのは、天や地など、なんらかなのものに「かけて」誓う誓いです。イエスも山上の説教で誓いを禁じていますが(マタイ5:33~38)、その場合もやはり「天にかけて」「地にかけて」あるいは「エルサレムにかけて」も誓ってはならないという教えでした。なぜ、イエスやヤコブがこのように禁じたかと言うと、当時の人は、そのように言うことによって、誓いが果たせなかったときの言い訳にしていたからです。マタイ23:16~22にその例が書かれています。彼らは、神殿をさして誓い、誓いが果たせなかったとき、神殿の黄金を指していなかったから、果たせなくても問題ない、黄金を指して誓っていたら、必ず果たさなければならなかった、と言い訳したようです。明らかな屁理屈です。しかし、実際に誓った時は、本当に果たすつもりでも、想定外の事が起こり、実現できなくなることも少なくありません。人間は、明日を予想できても、明日を知ることはできず、まして決定することはできないからです(4:14~15)。さらに、自分の弱さで、果たせなくなってしまうこともあります。果たそうとすることは重要であり、決意することも重要です。けれども、誓って果たせなければ、誓いそのものの信頼性が失われます。まして、天にでも地にでもかけて誓えば、神ご自身の信頼性が損なわれてしまいます。そのように神ご自身の信頼性を損なうならば、神ご自身がその人を裁かなければなりません。ですからヤコブは、「あなたがたの『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』でありなさい。そうすれば、さばきにあうことはありません」と言うのです(12節)。自分の言葉を信頼させるために、神を利用してはならないのです。

2、言葉の技術で説得するのではなく地道に行動に移すところに信仰がある

 現代の私たちは、このように神にかけて誓って人を説得しようということは、ほとんどないでしょう(アメリカの大統領や法廷では聖書に手を置いて誓いますが)。しかし、聖書は、誓いだけに限らず、実際の行動によらない、一時的でうわべだけの説得方法自体を問題視しています。当時の人にとって、その代表が誓いだったのです。と言いますのは、ヤコブはこの手紙を通して、行いの伴わない知恵の愚かさ、行いの伴わない信仰の問題を教えて来たからです。

 とくに2章では、イエス・キリストを信じていると言いながら、福音が教えている内容と実際の判断基準、行動がまったく違っている問題を取り上げました。それは、信仰ではないのです。しかし、当時ローマ帝国の各地に、寄留者として肩身の狭い思いをしていたクリスチャンたちにとって(1:1)、自分たちの行動によって、信仰の正しさを証明していくことは、あまりにも非現実的に思えたのでしょう。実際には、金や権力、人脈がものを言う。そのような現実を、嫌というほど見て来たのでしょう。だからこそ、彼らは焦り、自分たちが行動するかよりも、以下に手っ取り早く、関心を持ってもらうか、信じてもらうかに心がとらわれていった。その現れの一つが、誓いだったのではないでしょうか。だからこそ、この手紙の最後の部分で、「とりわけ、誓うことはやめなさい」と、結論的に強調しているのです。

 しかし、語りながら自分自身がその教えに生きていないならば、ひととき関心を買い、この世で良い立場を得たとしても、神の言葉自体の信頼性、また、その人自身の言葉の信頼性は地に落ちてしまいます。それは、神に対する大きな罪です。そして、言葉自体の価値も引き落としてしまいます。今も、「本当に」「必ず」「絶対」という言葉を多用することによって、その言葉が軽くなってしまう、そのような経験をします。だからこそ、私たちは一時的な、外面的な方法で、人の承認を得ようとしたり、関心を惹こうとしたりしてはならないのです。それよりも、まず自分自身が、御言葉に従い、語った言葉に誠実に生きていくことが、何より重要なのです。

3、言葉と行い・信仰と行いが一致するところに力がある

 そのように、聖書が教えているのは、自分の語ったことば、そして聖書が教え、自分が信じている言葉を、地道に実行して生きて行くことです。

 ヤコブは、こう言います。「あなたがたの『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』でありなさい」。これは、言葉のテクニックで印象を買えようとするのではなく、「はい」と言ったならば、その通りになるように、黙って行動しなさいということです。それ以上の、言い訳や装飾は必要ないということでしょう。ある意味で非常に厳しい言葉です。と言いますのは、それが良いとわかっていても、なかなか実行できないこともありますし、いつもは出来ていても、たまたまできないこともあるからです。また、様々な不可抗力によってできなくて、ちょうどその時だけ、出来なかった時だけ見られてしまうということもあります。ですから、どうしても言い訳したくなりますし、言葉で説得したくなります。良い面だけ見てもらいたいと思ってしまいます。

 だからこそ、私たちは神の目を恐れ、神に信頼しなければならない。これが信仰なのです。5:7~11でヤコブは、キリストを信じる者の生き方を、貴重な収穫を期待して働く農夫に喩えました。聖書の言葉に従っていても、実を結ぶまでは、なかなか成長を実感したり、結果が見えないことがあります。しかし、日々の働きは、決して無駄にはなりません。また、環境や自分の弱さによって、実行できないこともあります。しかし、「主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます」(11節)。だからこそ、出来ないことがあっても、誤解されても、結果がなかなか見えなくても、私たちは人に見せるためではなく、地道に聖書の言葉を信じ、実行していくところに希望があるのです。神が必ず豊かな結末を与えてくださるからです。

 ですから、誓ったり、焦って表面的な方法やテクニックで人の心を惹く必要はありません。そのような方法に頼れば、長い目で見ればかえって信頼を失い、神からもさばきを受けなければならないのです。また、自分自身が間違っている場合、誓ったり、強く主張したりすると後に引けなくなります。有言実行は重要ですが、もし自分が主張したことが間違いであったり、欠陥があったら、無理して実行することの方が問題です。大事なことは、間違っていたら素直に認め、改めることです。その意味でも、軽々に約束することは、不誠実です。

 このように手っ取り早い、言葉や、演出、外面的な方法に頼らないで信頼を得るのは、非常に地道な地味な生き方です。しかし、そこにこそ、神の偉大な力が現れるのです。もし、神がおられないならば、このような愚直な生き方は、愚かに見えるかも知れません。保障がないかもしれません。けれども、聖書は、神は信頼する者に必ず報いてくださると約束しております(ヘブル11:6)。ですから、神の誠実さに信頼して、聖書の言葉を信じ、一つ一つのことを誠実に、地道に行っていこうではありませんか。御言葉を実行して生きる所に、確かな力強い生き方、幸いがあるのです。