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みことばの糧60

人の承認を求めないイエスに見る救い主の姿と力

そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。ヨハネの福音書7:3~5

 恥じるべきことでないならば、人前でも堂々と行える。それは大切なことです。しかし、この世の中心的な人たちに受けなければ、認められなければ、意味がない。そのように考えてしまうことも間違いです。なぜなら、この世の主流派が、必ずしも正しく価値を判断出来ないことも少なくないからです。実際、歴史に名を残すような人物でも、その人が生きていた時代には、その働きの価値が評価されなかった人も少なくありません。

 イエスの弟たち(マリアとヨセフの間に生まれた兄弟たち)は、イエスの行っている奇跡は、ガリラヤのような田舎ではなく、イスラエルの中心地ユダヤ、その中でもエルサレムで行われるべきだと考えました(3節)。そこにこそ、当時のイスラエルの主流派と、その権威者たちがいたからです。弟子たちは、すでにイエスのわざを見ていましたが、この国の有力者に認められる形で、つまり今で言えば、テレビのゴールデンタイムで放映されるような形で、あるいはネットの上位ランキングに上るような情報として見たわけではありません。イエスの弟たちは、6章で多くの弟子たちが離れ去ったことにもショックを受けていたかも知れません。自分の兄が、弟子たちからもそっぽを向かれるような人物では、恥ずかしい。やっていることは、すごいことなのだから、ちゃんとこの世の主流派に認めてもらえばいいのに。そう思ったのでしょう。けれども、そのような思いこそ、キリストを信じる視点とは、大きく異なっていました。イエスは、たとえ全イスラエルに受け入れられなくとも、救いのわざを成し遂げられました。私たちは、人の評価ではなく、本質に目を向けなければならないのです。

1、神は人の人気を集めるところにおられるわけではない

 イエスの弟たちは、イエスがガリラヤ地方ばかりで働いているのを見て、「ここを去ってユダヤに行きなさい」と言います(3節)。ガリラヤは、イスラエルの辺境であり、神殿のあるユダヤは、イスラエルの中心地だったからです。しかも、「仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいて」いました(2節)。仮庵の祭りは、イスラエルの三大祭りの一つで、全イスラエル人の参加が義務づけられていました。その祭りに合わせて、イエスの奇蹟を行えば、きっと大勢の人に認められると思ったのでしょう。イエスの弟たちは、「そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができる」(3節)と言っていますが、弟子たちは今までも毎日イエスの「働き」を見ています。弟たちが言いたいのは、大勢の目に触れて、大勢の人に賞賛される「働き」と、田舎で地味に行われる「働き」とでは価値が違う。そのように田舎でばかり働いているから、弟子たちが離れて行くのだ。それは、弟の自分たちにとっても、恥ずかしいことである。やっていることは素晴らしい事なのだから、もっと大勢、しかも有力な人たちに見せたらいい。そうすれば弟子たちも、自信が持て、自分たちの師に誇りが持てる。そう言いたかったのではないでしょうか。しかし、そのような考え方こそ、救い主を信じない考え方でした(5節)。そして、「仮庵の祭り」の目的にも反する考え方だったのです。

 「仮庵の祭り」は、三大祭りの一つで、イスラエル中の人たちが、いえ全世界のユダヤ人がエルサレムに集まって来る賑やかな祭りでした。しかし、本来この祭りの中心は、賑やかさにあるのではありません。神は、イスラエルの先祖をエジプトの奴隷から導き出したとき、40年間もの間、彼らを荒野の天幕、つまり仮住まいに住まわせました(レビ23:43)。そして、神ご自身の礼拝所も、まだ神殿はなく、天幕(テント)での礼拝、つまり仮住まいでありました。「仮庵の祭り」は、その出来事を忘れないためのものです。そう考えると、エルサレム神殿で礼拝するから素晴らしいとか、大勢の人に認められるから素晴らしいと言う考え方は、この「仮庵の祭り」の趣旨と真っ向から反します。荒野で神の言葉に従って、定住場所を持たず、さまよい歩く生活。しかし、そのように神の言葉に従う彼らに、神は何もない荒野でもともにいてくださった。それが、天幕生活、天幕礼拝だったのです。そう考えると、辺境のガリラヤで、神の言葉に従って、地道に神のわざを行っていたイエスの生き方こそ、まさに「仮庵の祭り」の真髄を体現するものだったのです。

 救い主を信じるとは、どれだけ多くの人に認められるか、どれだけ世の中の市民権を得るかではなく、その言動自体が聖書の教える、義と愛と誠実に満ちているかどうか。それがあるならば、たとえ他の人が見向きもしなくともそこに期待する。それが救い主を信じる信仰なのです。旧約聖書もイスラエルの歴史も、そして新約聖書も、この事実を私たちに証言しているのです。

2、私たちの行いの悪いところを証しし憎まれるイエス

 もう一つ、この時のイエスの姿から教えられることがあります。イエスは、弟たちの勧めに反して、表だって祭りに行こうとはされませんでした。それは、多くの人がイエスを認めないどころか「憎んで」いたからです(7節)。なぜ、彼らがイエスを憎んだかと言えば、それは、「世について、その行いが悪いことを証ししているから」でした(7節)。ここで注目すべきは、イエスが「世について」と言っているのは、イスラエル人だったということです。人は、しばしば自分と対立する人やグループ、国の「悪いこと」を証明しようとします。そのことによって、自分の正当性を証明しようとするのです。気をつけないと、クリスチャンも、この誘惑に陥ってしまいます。未信者の「悪いこと」を証明し、自分たちは正しいと満足しようとしてしまいます。しかし、それはイエスのなさったことではありません。イエスは、まず異邦人ではなく、ユダヤ人の「悪いことを証し」しました。だからこそ、憎まれたのです。しかし、イエスが彼らの「悪いことを証し」したのは、彼らと対立したかったからでも、憎んでいたからでも、判官贔屓からでもありません。彼らを愛しておられたからです。カナン人の女の記事を読むと、そのことがよくわかります(マルコ7:24~30、マタイ15:21~28)。イエスは、ご自分が十字架に架かられるまで、イスラエル人より異邦人を優先することは、決してなかったのです(それでも、この記事の女性を初め数人の異邦人の信仰をユダヤ人以上に賞賛された)。そのイエスが、ユダヤ人の「悪いことを証し」したのは、彼らが本当の意味で神に受け入れられ、救いを受けるためでした。今のままでは、皆神の刑罰を受けて、滅びなければならんかったからです。そのためにイエスは、大勢の愛すべきイスラエル人から憎まれました。そのために表だって祭りに行くことも出来ませんでした。

 しかし、このようなイエスにこそ、神の愛と力が現れていたのです。なぜなら、彼らの「行いが悪いことを証し」したのは、彼らが自分の罪に気づき、そこから離れて刑罰から救いに移されるためだったからです。また、彼らに憎まれ、十字架に架けられることによって、彼らの罪の身代わりにご自分が罰を受け、イエスを信じる者の罪が赦されるためだったからです。イエスは、「世について、その行いが悪いことを証し」するために、この世から嫌われます。誤解を恐れずに言えば、時に、その「世」には、ある点で教会や自分さえ含まれます(注1)。しかし、そのように「世について、その行いが悪いことを証し」し、世に憎まれるイエスこそ、本当の救い主なのです。このようなイエスを信じる者を、神はあらゆる罪を赦し、聖め、ご自分の子とし、永遠に祝福してくださるのです。

注1:イエスを信じた者を、神はこの世からとりわけ、聖なる者として見てくださっています。しかし、同時にヤコブ2章やローマ8:1~11にあるように、世の考え方や肉の思いの影響を受けており、その影響と戦わなければならないことも事実です。しかしパウロがローマ7章で感謝しているように、自分が最も悪いときに愛していただいたことを知っている(ローマ5:8)クリスチャンにとって、自分の悪いことを証しされることは、むしろ幸いなことです。

3、人の目を気にせず神と一対一になる信仰

 イエスを信じる信仰とは、世の承認を気にせず、どのような辺境でも神のみことばに生きるイエスを信じる事でした。また、「世について、その行いが悪いことを証し」し、そのために憎まれるイエスを信じることでした。そして、イエスのように神と一対一になって信じる信仰でもあります。

 イエスは、弟たちにユダヤに行けと促されたとき、「わたしはこの祭りに上って行きません」(8節)と否定しますが、イエスは弟たちと行動を別にして「イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた」とあります(10節)。一見、嘘をついたともとれる行動です。しかし、ここにこそ本当の信仰が証しされているのではないでしょうか。イエスの弟たちは、伝統と形式にしたがって祭りに上って行きました。そうすることで、イスラエル人の主流派から仲間外れにされずに住み、彼らもまた神の民であるという証明を大勢の人、また有力者から得ることが出来ました。そこには、神に認められるのではなく、世の主流派、つまり世に認められようとする姿があります。神のための祭り、礼拝と言いつつ、その中心はこの世であり、人間になっていたのです。古今東西、このような誘惑、すり替えがどの時代にも、どの場所にも、どの宗教にも、非宗教にも見られるのではないでしょうか。イエスは、このように人に認められる形での祭りを拒否されたのです。しかし、イエスは人の承認を必要としませんでしたが、神の言葉に従うために「内密に上って行かれた」のです。そして、祭りを楽しむのではなく、最も重要なときに、最も重要なご自分の役割を果たすために行かれました(37節)。ここには、人にどう見られるかではなく、また、自分の欲望を果たすためでもなく、ただ神に信頼し、神に従う姿があります。神と一対一になる信仰です。このようなイエスの姿に、私たちが歩むべき本来の姿を見ることが出来ます。このようなイエスに倣うところに、救いの道があるのです。

結論

 聖書は、イエス・キリストを信じる者は、誰でも救われることを教えています。その時に、キリスト教の伝統とか、集まりの楽しさ、短期的な結果に囚われないでいただきたいのです。勿論、そこには本当の救いから生み出された形としての幸いがあることも確かです。しかし、そこに信仰の中心はありません。このように辺境のガリラヤでみわざを行い、人の悪いことを証しして憎まれ、十字架につけられたイエス。そして、人に認められるためではなく、神と一対一になって、個人的に従われたイエス。そこにこそ、真の救い主の姿があるのです。このイエスご自身、イエスご自身のわざ、イエスご自身の言葉、イエスご自身の歩みを信じていただきたいのです。そこにこそ、時代や場所に囚われず、色あせることも、力を失うこともない、神の力、知恵、救いの道が現されているのです。