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みことばの糧67

自分に不足を覚えるところにこそ幸いの原点がある

心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。マタイの福音書5:3

 この言葉は、日本人にとって誤解しやすい言葉です。と言いますのは、日本語で「心が貧しい」というと、度量が小さく、小さなことにとらわれ、視野が狭く、ケチであるというような意味で使われるからです。しかし、聖書で言う「心の貧しい人」というのは、そいういう意味ではありません。人が備えるべき心の資質、神が求めておられ、神が満足される資質にあまりにも乏しいという意味です。その乏しさを、自覚している人という意味です。

 習い事や勉強などでも、似たような事があります。あまりに自信がないとやる気をなくすという場合もありますが、自分は出来ていると思ってしまうと、そこで成長が止まってしまい、それ以上を求めることがなくなってしまいます。自分の心の貧しさを誰よりも自覚している人、そのような人が実は、最も幸いな者。聖書はそう教えています。

1、私たちの感覚とは異なる幸い

 この言葉で始まるマタイ5:3~12には、本当の幸いとは何かが教えられており、「幸い聖句」と呼ばれます。しかし、そこに列挙されている幸いの条件は、私たちの感覚からするととても幸せとは思えない条件が含まれています「悲しむ者」(4節)、「義に飢え渇く者」(6節)、「義のために迫害されている者」(10節)などです。何か逆説的なことを言って、人の意外性をつこうとしているようも思えてしまう言葉です。しかし、決して逆説的でも自虐的でもありません。それぞれにきちんと理由があるのです。

 そして、これらの理由は、神がおられなければ保障されません。そして、無理にこのような状態になろうとする必要もありません。イエス・キリストを救い主として信じると、このような心を持つようになるからです。ただ、そのような心を持っても、そのような心の状態は良くないと思ってしまい、信じる前の心の状態に戻ろうとしてしまいます。しかし、そうなればかえって本当の幸いを失ってしまいます。そこで、イエスは信じていない人には、信じた者がどのように幸いなのかを示し、信じた人には、今の心の状態は決して悲観すべきではなく、むしろ本当の幸いを受けられる状態であることを知らせ、励ましているのです。

、この幸いの基準は規則に縛られないために重要

 また、この幸い聖句は、マタイ5~7節にわたって記されている「山上の説教」と呼ばれるイエスの教えの序章として教えられています。聖書の教える信仰とは、イエスのことばを信じる信仰ですが、そのイエスの言葉の多くの部分は、この山上の説教とヨハネ14~17章に記されています。しかし、この山上の説教は、旧約聖書の律法よりも厳しい内容が教えられています。心の態度が問われますし、公平どころか相手を得させて自分は損してしまうような内容が多いからです。クリスチャンでもとても難しく、本当にできていないと言わざるを得ない内容が書かれています。ですから、この山上の説教が出来ていなければならないなどと言われたら、ほとんどの人がまいってしまいます。そのため、この箇所は福音ではない、旧約聖書の教えだと言い切ってしまう人さえいます。

 しかし、それでもこの教えこそ、救い主イエスが語られた教えです。そして、この山上の説教を読むとき、イエスこそまさにこのような生き方をされたことがわかります。そこで重要なのは、この教えを読む心の態度なのです。もし、この教えができていないとクリスチャンとしてダメだとか、責められると思ってしまうと、非常に窮屈になりますし、何も良いものは生まれません。しかし、「心の貧しい者は幸いです」「悲しむ者は幸いです」という基準に立つなら変わってきます。ここにイエスが教えられた条件が、本当に幸いだとわかるなら、この山上の説教は、読む人を追い詰めたりはしません。むしろ、自分がどれほど足らないかがわかります。そして、そのような人こそ、幸いだと神が言ってくださるのです。この教えは、私たちの善悪に対する心の態度を根本的に変えてくれます。正しい行いができるかどうかよりも、この心の態度こそが重要なのです。

3、自分の心の貧しさを知る人こそ満たされる

 しかし、自分の心が貧しいことで満足してしまったら、それもまた問題です。貧しいままでいて良いわけがありません。ですから、イエスは「心の貧しい者」が幸いである理由をきちんと伝えています。それは、「天の御国はその人たちのものだからです」という理由です。

 なぜ、こう言えるのか。一つは、「自分の心の貧し」さを自覚する人は、自然と謙虚になるからではないでしょうか。「天の御国」は、自分こそ正しい、自分こそ出来ているとうぬぼれる人の国ではありません。むしろ、「皆に仕える者」が尊ばれ、「皆のしもべに」なる人が高くされる国です(マルコ9:35、10:44)。自分ができていると思う人は人を見下してしまいます。しかし、自分の心の貧しさを知る時に、その人は本当に神の国にふさわしい心を持つことができるようになります。また、人を愛せるようになります。だからこそ、その人こそ本当に幸いだと言われたのでしょう。

 「心の貧し」さを自覚する者こそ、「天の御国」が与えられる理由は、もう一つあります。それは、自分は出来ていると思う人は、それ以上を求めないからです。今の自分で満足すれば、神が救いによって与えられる新しい心を求めません。今のこの世で満足できれば、神の国を求めることはありません。自分で神の国を拒否してしまいます。マタイ19章に出てくる裕福な青年は、まさにこのような人でした。彼は、モーセの十戒に書かれたすべてについて、自分はすべて、昔から守ってきたと言い切れる人でした。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めは、すべて守っていると言い切れたのです(18~19節)。ところが、彼は永遠のいのちを求めてイエスのもとに来たのに、完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい」(21節)と言われると、彼は悲しんで帰ってしまいます。財産を施さないと救われないという意味ではありません。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めを彼は守っていると言い切ったのです。本当に「貧しい人」「自分自身のように愛して」いたのならば、それは難しいことではなかったと思います。勿論、単純にお金を上げればよいという問題でもありません。ただ、彼にとって「貧しい人」は隣人ではなく、自分より価値の低い人だったのです。しかし、イエスはそれ以上を求められたので、彼は悲しんで帰って行ってしまったのです。

 しかし、自分にはできていない。しかし、愛せるようになりたい。そう願う人は、イエスのもとから離れません。そして、そのような人こそ、本当の意味で隣人を愛し、山上の説教に書かれている生き方ができるようになっていくのです。この世がそのような人ばかりになたら、この世はどれほど素晴らしい場所になるでしょうか。まさにそのような国こそ、「天の御国」なのです。山上の説教の最後に「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます」(7:24)。この厳しい山上の説教ですが、それが行えれば、この世の荒波にも、神の裁きにも揺るがない生き方が出来る。そのために必要な心が、自分の「心の貧し」さを知ることなのです。外面だけの行動や、人に認められることを求めれば、人はどんどん形骸化し偽りに陥ってしまいます。動機も歪んでしまいます。そこには幸いはありません。しかし、自分の心の貧しさを知り、救い主の豊かさに目を留めるならば、その人は本当に「幸い」な人なのです。「天の御国はその人たちのもの」なのです。