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みことばの糧69

2023年11月23日

悲しむべきことを悲しめる人の幸い

悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。マタイ5:4

 冒頭の御言葉は、今悲しんでいる人にとっては嬉しい言葉であると同時に、多くの人が抵抗を感じることばでもあると思います。悲しむことが幸いであるわけがない。それは悲観的で、後ろ向きな態度ではないのか。あるいは、「慰め」という言葉自体に不快感を感じる方も多いことでしょう。けれども、聖書は悲しみそのものが幸いだと言っているわけではありません。また、悲しんでいるならば、どのような悲しみでも幸いだと言っているわけでもありません。そして、「慰め」についてもこの世の人が慰める、うわべだけでことばだけの慰めではありません。あるいは人を慰めることで自己満足するような、どこかで人を見下したような慰めでもありません。

 ここで聖書が言おうとしている悲しむ人とは、本当に悲しむべきことを悲しめている人のことです。そして、聖書の語る「慰め」とは、単なるうわべだけのこの世的な慰めではなく、悲しんで良かったと言える現実を神が実現してくださる、現実の解決、結果がともなう神の「慰め」なのです。

1、良い悲しみと悪い悲しみ

 聖書は、悲しみといっても大きく分けて2種類の悲しみがあります。Ⅱコリント7:10を見ますと、「世の悲しみ」「神の御心に添った悲しみ」があると記されています。前者の「世の悲しみ」は、おそらく自分の願うようにならない悲しみ、人に受け入れられない悲しみ、人と比べてしまった結果の悲しみ等のことでしょう。この悲しみは「死をもたら」すと教えられています。それに対し、後者の「神の御心に添った悲しみ」は、自分が犯してしまった罪(聖書の言う罪はいわゆる犯罪だけでなく、嘘、高慢、親不孝、自己中心、人のものを欲しがる、不誠実、そして神に対する不信等も含む)を悔い、改めたいと願う思いを伴う悲しみです。イエスが3節で「心の貧しい者は幸いです」と語られた意味を考えても(みことばの糧67参照)、この4節で「悲しむ者」と言われている者の悲しみは、この「神の御心に添った悲しみ」が当てはまります。つまり罪を犯してしまった自分の罪の重さ、愚かさ、弱さを悲しみ、その罪を繰り返さず、罪から離れて行きたいと願う悲しみなのです。

 その思いは、5:6の「義に飢え渇く者は幸い」にもつながっていきます。神が喜ばれる、良い生き方がしたいと願いつつ、それが出来ていない自分の問題を嘆く悲しみです。ただ、嘆いてそこに立ち止まるのも、イエスが「幸い」と言われた悲しみではありません。それは、教会ではしばしば自己憐憫(じこりんびん)と呼ばれる感情であり、このような感情は決して良いものを生み出しません。「義に飢え渇く者は幸い」と言われているように、今のままの自分ではいたくない。ここから抜け出して、新しい自分として生きたい。そのような願いを切実に持つ悲しみこそ、「神の御心に添った悲しみ」であり、そのように「悲しむ者」こそ「幸い」な人なのです。

 また、この悲しみは、自分の罪や弱さを悲しむ悲しみだけではないでしょう。イエスが教えられた祈りには、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」とあります。神がご支配される天では、嘘も欺きも争いもなく、よいものばかりが満ちています。かといって何もないのではなく、仕事も生活もあり、むしろ一人一人が自分の生きている価値を最大限発揮できる、活き活きとした喜びに満ちた場所でもあるはずです。創世記2章に記されている堕落前の世界は、まさにそのような世界だったからです。しかし、その天と比べて、この世は、いかに不正や不公平、争い、不毛な競争、憎しみ、嫌悪等が満ちていることでしょう。そしてその責任の一部は自分にもある。そのようなこの世の現実を見て、それがこの世の当たり前だと思う人もいるでしょう。しかし、昨今の武力による蛮行とうに心を痛め、悲しみ、なんとかしたいと願う人も少なくないはずです。そのような現実を見て、「みこころが天で行われるように、地でも行われ」ていない、この世でも「みこころが天で行われるように」行いたいし、行われるようになって欲しい。そう願う悲しみもまた、この悲しみに含まれるのでしょう。6節に「義に飢え渇く者は幸い」とあり、9節で「平和をつくる者は幸い」と言われているからです。

、世の慰めとまったく異なる神の慰め

 しかし、前回「心の貧しい者は幸い」の箇所で見たときと同様、悲しむだけで終わるならば、それは決して幸いではありません。多くの人は、このような悲しみは、悲しんでも無駄だと考えてしまいます。今まで自分で直せなかった悪い癖は、これからも直せる希望は少ないですし、この世も自分一人の力では、到底何かできるとは思えないからです。しかし、聖書はこの悲しみは、悲しみで終わると言いません。「その人は慰められる」と語るのです。

 しかし、冒頭で触れたように、この世の「慰め」しか知らなければ、この「慰め」という言葉自体に嫌悪感を感じてしまいます。私自身、神の「慰め」が何かを知らなければ、この「幸い」は理解出来ません。しかし、聖書を見ますと、神の語る慰めは、この世の人間の慰めとはまったく性質を異にすることがわかります。その一つは、教会のクリスマスでよく語られるイザヤ40章1節の「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」という言葉です。

 この言葉は、やがて国を失い、エルサレムを破壊され、バビロンに捕囚として引かれていく民に語られた言葉です。彼らがこれから70年間経験する苦しみは、まったく望みのない苦しみでした。なぜなら、その苦しみは自分たちの罪に対する刑罰としての苦しみだからです。当時のユダヤ人たちは、今まで罪を犯しながら、散々悔い改めを拒み続けました。自分たちは神の民だから大丈夫だと言い張り、「平安だ。平安だ」と告げる偽預言者の言うことを喜んで聞き、悔い改めを迫る神の預言者を迫害してきました。そのために今まで忍耐してきた神も、ついに彼らに刑罰を下さなければならなかった。ですから、これから味わう七十年間の苦しみは、自分の責任であり、苦しんだからといって当然と見なされ、プラス要素のまったくない苦しみでした。また、バビロンに仕える生活でしたから、どれだけ苦しんでも、その労苦によって益を受けるのは祖国を滅ぼした外国人であり、まったく自分たちの益になるとは思えない。そのような苦しみでした。

 ところが神は彼らこれから苦しみ彼らに、この言葉を語られたのです。そして、続く2節でこう約束されました。「その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている、と」。彼らは、七十年の苦しみの後に祖国へ帰れる時が来たとき、この御言葉を思い起こしたはずです。その時には、もう自分のせいで苦しまなければならない、という悪循環のような苦しみをもう受けなくて良い。このような苦しみは、もう終わりだという宣言を聞くのです。それだけでも、どれ程大きな慰めとなるでしょう。しかし、神はそれ以上のことを語られます。「そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている」、と。今までバビロンで受けた苦しみは、自分の責任ですから、その苦しみが終わったというのは、囚人が刑期を終えたのと同じで、それ以上のものはなにもありません。ところが、その苦しみの2倍を恵みとして与えると神は語られたのです。これはとんでもないことです。たとえば借金をした人が借金を返し終わったからと言って、何かご褒美がもらえるでしょうか。そんなことはあり得ません。むしろ、借りた額以上に利息も払わなければならないのが普通です。ところが、借金を返し終わったら、借りていた額の2倍をご褒美としてくださった。それと同じ事がここで告げられているのです。実際に、ユダヤ人たちがエルサレムに帰還したとき、本当に大きな恵みが与えられました。確かに、妨害工作も受けたのですが、彼らの支配者であったペルシャ帝国(バビロニア帝国が滅び、メド・ペルシャが取って代わって帝国となったため)が、神殿再建の支援をしたのです。そして、建て上がった神殿と城壁は、ソロモンが建てた以上の規模となりました。ユダヤ人は、その後も問題を抱え続けはしましたが、捕囚前のようなひどい道徳的腐敗や偶像崇拝に陥ることはありませんでした。七十年間の労苦は、単なる苦しみで終わらず、罰を受ける前以上の恵みを受けたのです。

 これが神の「慰め」です。人は、自分の過失や罪で苦しむとき、自分で自分を責め、前を向きづらくなります。今までの苦労も泡になってしまった脱力感に膝が崩れそうになります。とくに聖書が語る罪とまっすぐに向き合うと、愕然としてしまいます。クリスチャンでさえ、ときに聖書が語る罪にまっすぐに向き合うことから逃げたくなります。しかし、その不都合な現実にまっすぐ向き合い、真正面から受け止め、悲しみ、悔い改めの決意をするときに神は語ってくださるのです。「その苦役は終わり、その咎は償われている、と。そのすべての罪に代えて、二倍のものを主の手から受けている」、と。そして、自分の責任である過失や罪の結果さえも、益と変えてくださるのです(創世記50:20、Ⅱ列王記4:38~41等にその例を見ることが出来る)。

 そして、この保障のために神は私の罪の身代わりとして、あなたの罪の身代わりとしてイエス・キリストを十字架に架けてくださったのです(Ⅰペテロ2:24)。

3、結論

 だからこそ、「悲しむ者は幸い」なのです。自分の罪や過失、弱さに対し、神の御心にそって悲しむならば、神は赦しを宣言し、そればかりか自分のせいで苦しんだ苦しみの結果さえも益と変えてくださるのです。ですから、自分の罪や過失、問題から目を背けることなく、キリストの十字架の身代わりに依り頼んで、前を向いて生きて行く。このような生き方こそ幸いだと聖書は約束している。そのことを知って頂きたいのです。笑い、喜びが必ずしも幸いを招くわけではありません。むしろ、悲しむべきことを目の前にしながら、悲しめない時こそ危険です。悲しむべきことを悲しめている人こそ、本来あるべき人の姿であり、また、幸いな人なのです。私もこの幸いをわずかながら、それでも充分過ぎるほど経験させて頂きました。しかし、しばしばそこから反れそうになります。ですから、さらにこのような生き方をしていきたいと願っています。