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みことばの糧66

生ける水の川 ~救い主と聖霊は信じる人の必要を満たすだけでなく周りの多くの人を生かして満ちあふれさせる~

だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになりますヨハネの福音書7:37~38

 人は、自分の願いがかなえば、心が満たされる。そう考えがちです。けれども、私の願う者が、私に本当に必要なものとは限りません。自分の求めているもの自体が的外れで、それを追い求めるために、周囲の人も傷つけ、自分自身も満たされない。一時満たされても、またすぐに他のものが欲しくなる。そのようなことが多いのではないでしょうか。

 イエスがこの言葉を語られた当時、救い主を待ち望んでいたユダヤ人の大きな願いは、ローマ帝国の支配からの解放でした。それが、彼らにとって自分たちが生きるために最も必要なっもの、つまり「水」だと考えていました(水の豊かな日本と違い、パレスチナにおける水は、生死に関わる重要なもの)。しかし、イエスは彼らに、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」と言われたのです。田舎の大工の息子のイエス。何も持っていないように見えるイエス。しかし、イエスのところにこそ、彼らが生きるために最も必要な「水」がある。しかも、その水は「川」となってあふれ出て、周囲にまで流れ出るとまで言われたのです。この「水」こそ、人間が最も求めるべき「水」です。問題は、この「水」以外のところに、生きる意味、価値、満足を求めることなのです。

1、「生ける水の川」は単なる心の満たしではない

 それでは、「生ける水の川」とは、何なのでしょうか。しばしば、人は満たされるというときに、心の満足感を求めます。クリスチャンも、「生ける水の川」をそのように理解しがちです。勿論、心の必要を満たすという面があることは、間違いないと思います。しかし、イエスがこの言葉を語られた状況、そして、この言葉の背景にある聖書のことば(38節で「聖書が言っているとおり」と言われている)を見るときに、そのような心の満足だけでなく、物理的なものも含めて生きるためにひつようなすべてと考えるべきだと思われます。

 まず、イエスがこの言葉を語られたのは、「仮庵の祭り」の時でした(2, 37節)。「仮庵の祭り」とは、かつて神がイスラエル人をエジプトの奴隷から救い出された時、40年間シナイの荒野で、「仮庵」つまり、テント住まいをさせたことに由来しています(レビ23:43)。そこでは、食糧も水も住まいも、すべてが不安定でした。それどころか、毒蛇やサソリ等、生命を脅かす危険な生物と常に隣り合わせでした(申命記8:15)。そのような環境で、テントという布で出来たな仮住まいに住み、行く先も不安定な生活は、どれ程危険で心許なかったこでしょうか(行く先について、カナンの地が約束されていましたが、神は40年間そこに入ることを許されなかった(民数記14:34))。そのような危険で、衣食住も不安定な中で、彼らがモーセを通して語られる神の言葉に従ったとき、常に食糧も満たされ、衣服はすり切れず、危険な生物からも守られたのです(申命記8:4~6、14~16)。単なる心の満たしではありませんでした。実際的に、生きて行くために必要なすべてが満たされたのです。神のことばを信じ、従った時に。仮庵の祭りは、その出来事を記念する時です。つまり、今も私たちを生かすのは、神のことばだという記念でもあります。つまり、イエスのことばにこそ、私たちが生きるために必要なすべてがある。イエスは、そう叫ばれたのです。私たちが本当に必要としているのは、一時的な心の満足ではありません。今の自分に本当に必要なものは何かを知ることです。聖書に記されたイエスのことばは、それを私たちに教えてくれます。ところが、私たちはしばしば自分にそれほど必要でないもの、空しいもの、ときに害になったり人を傷つけるものまで欲してしまいます(イザヤ55:1~2)。このように的外れのものを求めてしまう、私たちの心にこそ問題があります。人に本当に必要なのは、聖書に記されたイエスのことばなのです。

2、この水は神殿から流れ出す

 今まで見て来たように、私たちが欲するもの自体がずれており、自分が本当に必要としている者は神がご存じであり、聖書に記されたイエスのことばにこそ、その答えがある。これは、イザヤ55:1~2の成就でもあります。そこには、「ああ、渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい」と記され、続く箇所で人間は自分に必要のない者のために犠牲を払ってしまうことが教えられています。イエスのことばは、まさにこのイザヤ55:1~2節の成就でした。

 しかし、イエスが語られた「生ける水の川」という言葉は、個人的な必要を満たすというには、あまりにも壮大な言葉です。今もそうですが、川というものは、その地に住む住民に必要なすべての水を供給します。個人という視点は、あまりにも小さすぎます。そして、聖書には、この川という表現が、ちゃんと記されています。エゼキエル47章です。そこには、「神殿の敷居の下から」(47:2)水が流れ出て、紅海のアカバ湾にまで流れ出て、海の水を良くし、海と流域のあらゆる生き物を生かすと言われているのです。イスラエルに流れるヨルダン川は、死海で行き止まりになり、海に注ぎ出ることもなく、死海は文字通り死の海でした。そのようなイスラエルで、生き物を死に至らせるどころか、さらに広大な場所にまでいのちを届けるという壮大な預言だったのです。そしてこの預言は、イスラエル人が祖国を滅ぼされ、バビロンの捕囚民となっているときに語られた預言です。エゼキエルは、捕囚となった民に、バビロンを恨むのではなく、神にことばに従って、むしろバビロンに仕えるように語りました。そうすれば、神はやがてエルサレムに返してくださり、むしろイスラエルは、自分たちが救われるだけではなく、周囲の大勢の人も生かす、いのち豊かな生き方が出来る。そのような預言だったのでしょう。

 そして、イエスが語られた仮庵の祭りの「大いなる日」には、このエゼキエル47章を覚えて、神殿の祭壇に水を注がれる日でした。当時のイスラエルは、ヘロデ王が建てた豪華な神殿を誇っていました(ヨハネ2:20、マルコ13:1)。その彼らは、ローマの支配から解放され、この物理的な神殿が栄誉を回復するところに希望を持っていたでしょう。しかし、エゼキエルがまずバビロンに仕えるように語ったように、本当の希望は神のことば、イエスのことばにこそ求めるべきでした。

 さらに神殿と言うときに、神殿の本当の価値は、建物ではなく、神ご自身がそこに住み、神の御心が行われているところ。それが最も重要でした。そのような意味では、当時の神殿は、とても神殿とは言えませんでした。豪華に作られたとしても、それは神のためではなくヘロデ王が政治的にイスラエル人を懐柔するためでした。また、ユダヤ人も、異邦人の礼拝を尊ばず、民族的誇りを満足させる、自己満足の場所と化していました(マルコ11:17)。しかも、神の言葉を語る、本当の神の御子が来ても、邪魔者として追い出そうとしてしまう状態でした(マタイ21:23, 33~40)。しかし、イエスご自身は、物理的には何の栄誉も持っていませんでした。しかし、イエスが語ることば、イエスの行いは、すべて神が語られた通りであり、聖書の通りでした(ヨハ14:10)。このようなイエスのからだこそ、本当の神殿だったのです(ヨハネ2:21)。自分の願いではなく、神の願うことばを語り、自分の願う行いではなく、父なる神が願う行いだけを行ったイエスこそ、神の神殿でした。そのまことの神殿からこそ、この「生ける水の川」が流れ出るのです。

3、イエスを信じる者から人を生かす豊かな川が流れ出る

 しかし、イエスは、この「生ける水の川」について、ご自分から流れ出るとは言われず、「その人の心の奥底から」流れ出ると言われました。なぜでしょうか。この言葉の次の39節で聖書は、「イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。…」と言っています。この後、イエスは十字架で死なれ、三日目によみがえります。そしてその後、信じるすべての者に、三位一体の神ご自身である「御霊」つまり、聖霊が降りました。この聖霊が一人一人の心に住んだことによって、イエスを信じた人たちは、恐れや自分の悪い欲に打ち勝ち、聖書の言葉に信頼し、神の御心を行って行くようになったのです。

 この聖霊が今も、イエスを救い主と信じるすべての人に住んでくださる。このことによって、「その人」自身が、神の御心を行う神の神殿と変えられて行く。その時に、その人自身から「生ける川の水」が流れ出る。その人自身が神の言葉によって生かされるだけでなく、周りの人をも生かす言葉を語り、行いを生み出していける。そう語られたのです。

 しかし、イエス・キリストを信じたからと言って、「生ける水の川」だけあふれ出させることができるわけではありません。新約聖書のあらゆる箇所に見ることが出来るように、イエスを信じているクリスチャンの口からも悪い言葉が出てくるのです(ヤコブ3:9~10、4:11~12等)。また、悪い行いが出てくるのです。クリスチャンの内にも聖霊だけでなく、罪の性質も同居しているからです(ローマ8:6, 11, 13)。ですから、聖書は、この罪の性質から出てくる思いを殺し、聖霊に従うよう命じています(ローマ3:13、ガラテヤ5:13, 16~17等)。私たちが本当に戦わなければならないのは、自分の心に住む罪の性質です。当時のユダヤ人は、ローマを的だと思い、ローマと戦うことを求めました。しかし、聖書は本当の敵は自分の心の中にこそあると教えるのです。

 この自分の心の内にある罪の性質に打ち勝ち、自分の心とからだを聖書に従わせていくときに、私たちは「生ける水の川」を自分のためだけでなく、外にも豊かに流れ出させることができるようになるのです。ここにこそ、私たちが生かされている意味があり、価値があります。自分の心の満足を求めれば、人は罠に陥ります。そこには、本当の解決はなく、むしろ空しい欲、罪の思いに陥り、自分自身も周りの人も苦しめてしまいます。本当の解決は、聖書に記されたイエスのことば、そしてその言葉を愛し、行いたいと願わせてくださる聖霊にあるのです。このイエスの言葉を信じ、イエスのことばを行わせてくださる聖霊に希望を置いて頂きたいのです。そこにこそ、自分もまわりの人も生かす「生ける水の川」が流れ出るのです。