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みことばの糧65

人が目指すべき目標・目的地に立ち返ることがすべてを回復する ~目標・目的地が間違っていればすべてが間違ってしまう~

私の兄弟たち。あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すなら、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、罪人のたましいを死から救い出し、また多くの罪をおおうことになるのだと、知るべきです。ヤコブの手紙5:19~20

 皆さんは、人の行動や、言葉、仕草が気になってしまうことがないでしょうか。私もそうですが、人はしばしば、人が自分がこうあるべきと思っている行動と異なる行動を取ったり、言葉遣いをしたりすると、気になってしまいます。さらに、その人が身近な人である場合、その人の言動を修正しようとしてしまうこともあります。勿論、その人の行動が今すぐ止めなければならない危険で、重要な間違いであれば、急いで止めることが必要な時もあります。しかし、しばしば、そこまで大きな問題ではないにも関わらず、こだわってしまい、イライラしたり、ときに争ったりしてしまう。そのようなことがないでしょうか。とくに身近な関係ほど、そうなりやすいと思います。同じ行動様式を持つことで、仲間意識を感じたいからかも知れません。

 しかし、聖書を見ますと、一つ一つの言動よりも重要なのは、何を目指して、どこに向かって進んでいるかです。この目標がずれていれば、すべての言動が影響を受けてしまいます。良かれと思って行うことさえも、悪い結果を生んでしまいます。本当に重要なことは、人生の目標が正しい方向に向くことなのです。そうすれば、一つ一つの判断も、適切な方向へ向かうようになり、間違ったとしても、自分で気づけるようになります。

 ヤコブは、試練に打ち勝つ道、そのための知恵を教えて来ました。その知恵がここにあります。どのような試練の中でも、目指すべき目標さえ正しい方向に向いていれば、必ず試練の中にも喜びを見出し、乗り越え、誘惑に打ち勝つことができます。自分の願う目標でもなく、ある意味キリスト教の目標でさえなく、聖書自体が指し示す目標につねに立ち戻ることが、私たちの人生を生き生きとした、価値ある、いのちのあふれたものにしてくれる。今日の箇所は、そのことを教えてくれます。

1、真理から迷い出てしまうところに問題がある

 このヤコブの手紙を読みますと、当時ヤコブが手紙を読んでもらいたいと願ったクリスチャンたちは、大変名試練の中にあったようです(1:2)。そして、その苦しみの中で、互いに争い、さばき、悪口を言い合う(4章)。そのような問題に陥っていたようです。私たちも、なかなか問題の解決が見えなかったり、行き詰まった状況が続くと、どうしても身近な人に当たったり、人のせいにしてしまう誘惑に駆られます。そして、身近な人の言動、一つ一つが気になってしまったりします。しかし、ヤコブは、この手紙の結論として「真理から迷い出た者」「迷いの道から連れ戻す」ことこそ、重要だと教えます(19~20節)。一つ一つの言動に腹を立てるのではなく、その人がどこに向かっているかが重要なのです。そこに目を留めれば、争いではなく、互いに愛し合い、助け合うことができる。そのような道こそ、試練に打ち勝つ道なのです。

2、真理から迷い出た者とは

 では、「真理から迷い出た者」とは、誰でしょう。クリスチャンは、しばしばこの言葉を未信者に当てはめがちになるかもしれません。それは、とくに20節で「罪人のたましいを死から救い出し」と書かれているからです。教理的に言えば、イエス・キリストを信じた者は、罪から救われ、罪が赦され、義とされました。ですから、「罪人」ではないはずですし、まして霊的に「死」んだ者ではない。そう思ってしまいます。けれども、ヤコブは、はっきりと「私の兄弟たち、あなたがたの中に…」と言っていますから、この言葉は、明らかにクリスチャンに向けられた言葉です。「私の兄弟たち」について、ヤコブは、2:1で「あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら」と言っているからです。さらに、「迷い出た」ということは、本来「真理」に向かって歩んでいたということです。勿論、内容的には広い意味で未信者も含めることができます。しかし、ヤコブは主にクリスチャンに向けて語ったことを見落とすべきではありません。

 確かに、イエス・キリストを信じた人は、すべての罪を赦していただきました。キリストの十字架の故に義人(まったく罪も汚れもない者)と見てくださいました。けれども、それは神に背を向け、間違った方向に向かっていた罪を「悔い改めて神に立ち返」ったからです(使徒3:19)。つまり、正しい方向を向いたからです。しかし、その方向がずれてしまったならば、行き着く先は「死」だと、聖書はローマ6:16で教えています。このローマ6章も、キリストを信じた者に対して語られた言葉です。確かに、聖書は救いから落ちることはないと教えております(Ⅰコリント1:8)。そして、それはバプテストの教理にもあり、私もそれを信じております。しかし、それは自動的に正しい道に歩めるという意味ではありません。そうであったら、聖書は必要ありません。新約聖書のほとんどの箇所は、直接的にはクリスチャンに向けて語られています。そして、多くの箇所で聖書は、クリスチャンに警告しています。それは、キリストを信じた人は、聖書の警告を聞いて、従う心を持っているからです。聖霊が、心の内に住んでいてくださり、聖書の警告を受け入れられるように助け、たとえ道から反れても、立ち返ることができるように助けてくださるからです。ですから、道から反れたら、その先には死がある。滅びがある。その事実は、クリスチャンも真剣に受け止める必要があります。聖書が警告しているのですから。しかし、当時の羊飼いが、道から反れたり、危険なところに向かっている羊を、杖でもとの道に連れ戻したように、羊飼いであるイエス・キリストが私たちを時に叱り、時に励まして、危険な死の道から「連れ戻」してくださいます。ヤコブ書も、そのキリストの愛からでたメッセージなのです。

3、真理から迷い出たからこそ間違った判断をしてしまう

 では、繰り返しますが、「真理から迷い出た」人とは、誰でしょうか。それは、クリスチャンを含みます。しかし、どのように「真理から迷い出た」のでしょうか。具体的な例で最も顕著なのは、いつも引用する2章前半です。そこで、当時のクリスチャンたちは、教会の中で貧しい人を差別し、金持ちを優遇していました(2:1~9)。なぜ、そのような差別をしてしまったのか。それは、恐らく教会を守るためだったと思われます。と言いますのは、「あなたがたの集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て」と書いてあるからです(2:2)。当時「金の指輪をはめ」ていた人物は、単なる金持ちではなく、元老院を初めとして、かなり地位の高い人たちであったからです。つまり、その人たちの機嫌を損ねれば、教会は迫害の対象となってしまう。しかし、彼らに気に入られれば、ともすれば経済的支援を得られたかも知れません。つまり、彼らは、教会のためには、「金持ち」をいかにもてなすかが重要だと考えていたのでしょう。それなのに、「みすぼらしい身なりの貧しい人」にも、「金持ち」と同じ待遇で迎えたとしたら、貧乏人と一緒にされたと機嫌を損ねてしまうかも知れない。それは、当時の人にとって本当に恐ろしいことだったに違いありません。しかし、彼らは「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされた」と信じたのです(5節)。これが聖書の教える、そしてキリストが教えた真理です。彼らは、教会のためと思いながら、実際には、神の「真理」を否定し、「真理から迷い出た」のです。そして、「真理から迷い出た」結果、「自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となっ」てしまったのです(2:4)。ですから、差別したことが問題の中心ではありません。彼らの向いている方向が「真理から迷い出」てしまったからこそ、判断基準が変わり、差別してしまったのです。判断基準が間違ってしまえば、どれだけ良いこと、正しいことをしようとしても、神の目には間違ったものしかでてきません。そのために、問題となる行動が出てきてしまうのです。重要なことは、行動一つ一つを変えることよりも、本来信じた「真理」に立ち返ることなのです。そうすれば、彼らは正しい判断ができるようになり、言われなくとも神に信頼し、差別をしなくなります。

 そう考えますと、まったく「真理から迷い出て」いないクリスチャンなどいるのでしょうか。どんなに立派なクリスチャンであっても、どこかでずれてしまっていることが多いように思います。しかし、その間違いは自分ではなかなか気づかないものです。気づいていたら、迷いません。気づかないから、迷い出てしまうのです。ですから、気づいた人が「連れ戻す」、導くことが何より重要なのです。それこそた、人のいのちを「死から救い出す」すばらしい、価値ある働きなのです。そのような働きは、試練の中でも、迫害の中でもできます。このように考えられたら、どのような試練でも乗り越えることができます。パウロもそうでした。パウロもまた、自分が投獄され、行動を制限されても、獄中で逃亡奴隷オネシモを救いに導いたのです。そして、オネシモの主人ピレモンも、ある点で真理からそれる危険のあったピレモンをも、獄中から手紙を書いて導きました(ピレモンへの手紙)。このような視点を持っていれば、私たちはどのような状況に置かれても、喜んで、前進していけるのです。

4、人を責めるのではなく助け合う道

 しかし、「人を連れ戻す」と言っても、まるで自分は、迷い出ていないかのように、自分は正しいかのようにふるまうべきではありません。ですからヤコブは、16節で「ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい」と教えたのです。以前見たように、この「癒される」は、身体的病気だけをさしているわけではないと思われます。5:17のエリヤの祈りの模範でも、エリヤが祈った当時のイスラエル人は、神から離れ、「真理から迷い出」ていたからです。ですから、自分自身も聖書によって自分を吟味し、自分自身も真理からそれていないか確認する。そして、反れていれば、悔い改める。そして、そのために祈ってもらう。「あなたが迷い出ているから、私が導いてあげるんだ」ではなく、「私も道からそれやすい者ですし、反れていたので、一緒に本来の『真理』が何であったかを思い起こし、そこに向かって再出発して行こう。そのために私のためにも祈ってほしい」。そのような姿勢こそ、本当に人を死から救い出すいのちの道なのではないでしょうか。そのように互いに祈り合い、助け合うことを通して、私たちは救いの内に守られ、永遠のいのちに生きることができるのです。

 そのように互いに祈りあい、助け合うときに、争いや悪口は生まれてきません。争いや悪口を禁止して、なくなるものではありません。そうではなく、互いに「真理に立ち返」ことを常に求め、祈りあい、助け合っていく。そうするときに、私たちは罪から自由になるのです。そして、そのような祈りは必ず神に聞かれます。信仰による正しい祈りです。神が喜ぶ祈りだからです。そのために全能の力を働かせてくださいます。このような生き方こそ、試練に打ち勝つ知恵です。最高の解決方法なのです。

 ですから、すでに信じておられる方も、一つ一つの言動に心とらわれるのではなく、常に聖書から自分の向かっている方向が間違っていないか確認し続けていただきたいのです。また、まだ信じておられない方も、このような生き方にこそ、本当に喜びと平安のある、勝利ある道があることを知っていただきたいのです。聖書の真理は、私たちの心を自由にし、常に生きがいと、試練や誘惑に打ち勝つ力を与えてくれるのです。