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みことばの糧7

キリストの救いが生み出す幸いな関係 ~ 親子① ~

子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。 

エペソ人への手紙6:1

 今回の内容も、現代において複雑な問題が絡んできますので、少し長文です。

 現代は、かつての封建的家父長制度への反動から、厳しい親、叱る親のあり方を否定する向きがあります。確かに、あまりにも一方的、強制的な教育の弊害が多いことは事実です。けれども、だからと言って子が親に従うべきことを否定するのもまた極端です。親の権威が弱くなった現代、以前より親子の絆は強くなったのでしょうか。

反面教師は本質的な解決にはならない

 過去の間違いを反面教師にすることは、問題の本質的解決にはなりません。これは、私自身、身にしみて感じていることでもあります。このエペソ書が書かれた当時も、ローマ帝国による力による支配、圧政から強権的支配に対する嫌悪感が強く、子が親に従うという親子観を否定する風潮があったようです。まさに、現代と同じような状況でした。しかし、その当時のエペソ教会に対して、聖書は、子が親に従うべきことを教えたのです。それは、決して今までの封建制を擁護するものではなく、キリストの救い故に築くことのできる、最も幸いな人間関係がそこにあったからです。

本来子が親に従うことは自然なこと

 聖書は、子が両親を敬い、従うことが正しいと教えています(1節、出エジプト20:12)。そして、これは聖書だけでなく、全世界共通の道徳観でもありました。にもかかわらず現代人が親に従うことに抵抗を感じる一つの理由は、戦後、あまりに厳しい親のもとに育つ子どもが多かったからだと思われます。自分の話も聞いてもらえず、一方的に決め付けられ、自由を奪われ、伸びるところも伸ばしてもらえなかった。そこには、確かに多くの問題や理不尽な苦しみが存在したことは間違いありません。けれども、だから「従う」こと自体が間違いなのではありません。自然界の動物たちも、親に従うことによって外敵から守られ、成長していきます。人間は、ますますそうであるはずですし、神は、そのように親子を造られました。けれども、人間に罪の性質が入って以来、人間の親は問題を抱えるようになりました。子のためと思いながら、実は自分の理想を押しつけていたり、自分の心を満足させるために子を支配したりしてしまうようになったのです。愛しているつもりが、甘やかしているだけ、という例も少なくありません。問題は、子が親に従うという秩序ではなく、その秩序の乱用なのです。

父なる神に従われたキリストに現された幸いな関係

 この点について、イエスは、親に従う生き方を貫かれました。神の御子でありながら、人間の両親に従い、仕える生き方をまっとうされました(ルカ2:51)。そして、父なる神にも従われました(ヨハネ5:19等)。しかも、幸いな命令だけに従われたのではありません。人の罪の身代わりに死ぬという十字架の死にまで従い通されたのです(ピリピ2:8)。だからといって、イエス・キリストには父に従わされたという卑屈さや、窮屈さはありません。むしろ、父に従うことこそ幸いであり、ご自分の生きる目的であると信じ(ヨハネ12:27)、喜んで従われたのです。そして、父なる神も、常に我が子イエスの願いを聞き入れ(11:42)、イエスを愛し、喜んでおられる事を証しし(マタイ3:17等)、ご自分の栄光をお授けになりました(ピリピ2:9等)。父なる神と、子なるイエスの間には、何者も引き離すことのできない、これ以上なく力強い絆があったのです。

キリストによる救いはこの幸いな父子関係へと私たちを導く

 キリストを信じた者は、この父なる神と子の間にある愛の関係の中に入れられたと聖書は教えています(ヨハネ17:21~26)。この地上の父親は、子に対して良い父でありたいと願います。それでもなお、神のような完全な父になることはできず、むしろほど遠い生き方しかできません。中には、子を虐待してしまう親もいますし、親を早くに失ってしまった子どももいます。それでもなお、完全な父である神が、私たちの父になってくださる(信じた人にはなってくださった)のです。この神と私の親子関係によって、私たちはイエス・キリストのように父に信頼し、愛され、従うことを学んで行くのです。

 この関係が、地上の親にも従う土台となるのです。相手が変わってくれなければ、自分も変われない。私たちは、しばしばそう思います。優れた父親であっても、従うことが難しく感じることが少なくありません。まして、親子関係に問題を抱えている中で、子が親に従うことを求めるのは、あまりにもひどいと感じることがあります。けれども、父なる神が、私の父になって下さることによって、私たちはこの悲壮感に打ち勝つことができるのです。たとえ、地上の親に愛されていないと感じる時も、父なる神は、キリストのいのちを犠牲にしてまで愛して下さっています。地上の親が私たちの欠点に失望することがあっても、父なる神は私たちの罪深さ、弱さを知ってなお、最愛の御子を犠牲にするほど愛して下さったのです。聖書に反することや、理不尽な命令等、たとえ親であっても従えないことはあります。それでも、それ以外のことは従おうとしていく。聖書は、その事を求めて行くように教えているのです。

 神は、このようにして個人だけでなく、夫婦関係、親子関係をも救おうとしておられるのです。人間は、ハリネズミのたとえで言われるように、近づきたいと願う程、関係を難しくしてしまう問題を抱えています。アダムによって罪が入って以来、神がくださった幸いな関係が歪んでしまい、壊してしまうからです。けれども、キリストの救いは、この関係を回復し、救う神の力なのです。

 当然従うべき優れた両親のもとに生まれた人もいます。あるいは、なぜこのような親のもとに生まれたのかと、恨みたくなる環境にいる人もいます。けれども、本当に幸いなのは親子関係が回復されることです。その関係は、子が父を信頼し、従うことでもあります。キリストの救いによって、神はこの関係を回復させてくださるのです。ですから、キリストの救いに支えられて、両親に従うことを追い求めるところにこそ、真の幸いがあると聖書は約束しているのです(2~3節)。