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みことばの糧31

2023年1月8日

全世界のすべての人にむけて備えられた救いの光

主は言われる。「あなたがわたしのしもべであるのは、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのうちの残されている者たちを帰らせるという、小さなことのためだけではない。わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」

イザヤ書49:6

 

 クリスマス、つまり救い主の到来は、神の救いが全世界、すべての民族のためであるしるしでもありました。救い主降誕の際、救い主を全世界の王としてあがめたのは、わずかのイスラエル人とイスラエル人ではない東方(おそらくバビロン)の博士たちでした。イエス・キリストの生涯においてもサマリア人やツロの女性が救いに導かれ、キリストの昇天後は、救いに導かれる人はユダヤ人よりも、むしろが外国人が中心になっていったのです。しかし、それは偶然でも、突発的でもなく、神のご計画の現れでした。イエス・キリストが降誕される700年前に、すでにこの預言がなされていたのです。そして、その預言通りにキリストの降誕を機として、神の救いは一気に全世界へと拡がって行ったのです。しかし、それはある点で公にもてはやされる方法ではなく、むしろ地味な方法で備えがなされていきました。イザヤが預言した紀元前700年頃に、すでにその備えが進んでいたのです。その結晶が、イエス・キリスト降誕、十字架を機に、開花していきました。そして今も、神の救いは人知れない、地味なところで備えがなされているのです。人の目には地味に見えても、そこにこそ、この世のどのような闇も打ち勝てない、力ある真の希望の光が輝いているのです。さらに輝き出る時を待っているのです。そのことを、このイザヤ49:1~6節に見ることができます。

1、多くのイスラエル人が神に信頼しない中で語られた言葉が世界を照らす

 「わたしはあなたを国々の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」。この言葉だけを聞くと、まるでイスラエル人だけが優れた民族かのように、独善的な民族意識からでた言葉かのような印象を受ける方もおられるかもしれません。しかし、この預言の背景を知り、49章の1~5節にも目を留めるならば、それはまったく違うことがわかります。確かに「あなた」という言葉は、イスラエル人に向けられています(3節)。けれども、2~4節を見ますと、厳密にはイスラエル人の中でもごく限られた人たちにしか、この言葉が向けられていなかったことがわかります。「私は無駄な骨折りをして、いたずらに空しく自分の力を使い果たした」とその人は訴えます(4節)。ここでの「私」とは、イザヤをはじめとする、ごく少数の人たちを表していると考えられます。と言いますのは、当時のイスラエル人、そしてユダ王国のユダヤ人たちのほとんどは、神から心が離れていたからです。神に従い、正しく生きることよりも、今効率が良い、自分が得する生き方をすることにしか関心がありませんでした。たとえ、神を礼拝していても、それは本当に神に感謝しているからでも、信頼しているからでもなく、自分の正しさ、自分の価値を証明するためでしかありませんでした(イザヤ1:1~17等)。そのような中で、イザヤをはじめとする少数の人たちは、このままでは神の怒り、神の刑罰が降ることを知り、人々が悔い改め、間違った道から立ち返るようにと必死で語り、働きました。けれども、その言葉に耳を傾ける人はわずかに見え、「無駄な骨折り」をしているようにしか感じられなかったのです。

2、世が認めない働きを通して備えられた救いが世界を照らす

 しかし、彼らの信仰、働き、熱意、努力は決して「無駄な骨折り」ではない。そのことを示すために神が語られたのが、冒頭の6節の言葉なのです。ですから、この言葉は、決して民族意識から出た者でも、独善的な思いから出たものでもありません。むしろ、地味で誠実に神に信頼して生きて来た人たちを励ますために神が語られた言葉なのです。そして、そこに目を留める時に、神が全世界の民に備えられた救いが、いかに優れたものであるかを知ることができるようにされた。そのような言葉なのです。

 先ほど見たように、イザヤをはじめとした神のしもべの働きは、「無駄な骨折り」にしか感じられませんでした。彼らがどれほど自国民を愛し、熱心に語りかけても、実際に滅びを間近に見ていない彼らには、ほとんど響かなかったのです。むしろ、神の言葉に耳を傾けない人たちの方が、主流で、正当であるかのように、当時の人の目には見えたことでしょう。しかし、神は「御手の陰に私をかくまい、私を研ぎ澄まされた矢とし、主の矢筒の中に私を隠された」とイザヤは言います(2節)。確かに、イザヤたちの働き、イザヤたちの言葉は、当時の世の中には響かず、認められず、「隠され」ているように見えました。地味で虚しい働きに見えたのです。けれども、それは無意味ではなく、むしろやがて時が来たときに「研ぎ澄まされた矢」として、優れた力を発揮するためであったのです。そして、イエス・キリスト降誕を機に、その矢が解き放たれたのです。

3、700年の時を超えて解き放たれた研ぎ澄まされた矢

 イエス・キリストの降誕の時、ほとんどのユダヤ人たちは救い主到来を理解せず、喜びもしませんでした。しかし、ユダヤ人でもイスラエル人でもない東方の博士たちが、幼子イエスを「王」としてあがめにきたのです(マタイ2:1~11)。イザヤの語った言葉は、700年の時を経て実現したのです。さらに、イエス・キリストご自身もまた「研ぎ澄まされた矢」として放たれました。イエス・キリストは、救いの約束を待ち望んでいたイスラエル人の優位性を否定しませんでした(マルコ7:27等)。だからといって、民族主義に堕することなく、むしろイスラエル人も神の御前では罪人に過ぎないことを大胆に示されました(ルカ4:24~27等)。そして、ユダヤ人たち優先的に福音を語っていきながらなお、異邦人が救いに導かれて行ったのです(マルコ7:27、ヨハネ4:22~23等)。イザヤたちの働きが、イエス・キリストを通して実現し、ユダヤ人をへりくだらせ、異邦人に救いをもたらす働きに用いられていったのです。彼らは、あくまでも自国民のためだとしか当初思っていなかったかもしれません。そのために、「無駄な骨折りをして、いたずらに空しく自分の力を使い果たした」と落胆していたのでしょう。けれども、神は彼らの働き、彼らの言葉を、遠い未来に、異邦人をもイスラエル人をも救うという、彼らの想像を遙かに超えた大きな働きのために用いようとされていたのです。

4、人間の罪や弱さを通して輝く救いの光が世界を照らす

 そして、この「研ぎ澄まされた矢」は、さらにサウルという人物を通して、爆発的な力を現していくことになります。サウル(後のパウロ)は、ユダヤ人のなかでもエリート中のエリートであり(ピリピ3:4~6)、プライドの塊、民族主義の塊のような人物でした。勿論人一倍まじめで、努力家でありましたが、そのまじめさ、努力は、本人の思いとは裏腹に、むしろ神に逆らう方向に向いてしまっていたのです(使徒9:4等)。しかし、その事実に気づかされたサウロ(パウロ)は、ユダヤ人よりむしろ異邦人に仕える使徒とされていったのです(使徒13:47)。民族主義の塊で、最も血筋を誇り異邦人を見下していた人物が、自分の罪を認め(エペソ2:3等)、むしろ異邦人のために身を粉にして働いたのです。ユダヤ人の優位性を誇っていれば、自国民から迫害されることもなく、むしろ尊敬された人物です。そのパウロが、むしろ民族主義を恥じ、異邦人を愛する姿は、多くのユダヤ人たちの怒りを買いました(参考:ガラテヤ5:11)。それでもなお、異邦人に福音を伝え、愛する姿が多くの異邦人の心に響き、悔い改めに導き、救いを受け入れる者へと導いていったのです。そして、ユダヤ人たちの中からも自分の罪に気づき、救われる人が起こされていったと思われます(ローマ11:31等)。「研ぎ澄まされた矢」は、パウロの、罪深さ、弱さを通してその力を発揮していったのです。イザヤが働いた当時のイスラエル人の罪深さも含めて。神は、イスラエル人が優れていたから愛されたのではない。このように神の道を理解せず、信頼せず、反抗してしまう民をも愛され、約束を守られたことを通して、すべての民を救おうとされる神の愛と誠実さを私たちに示してくださっているのです。

5、今も地味な働きを通して現される神の救いの力が世界を照らす

 このように、神に従う者は、イザヤやパウロのように、そしてイエス・キリストご自身のように、当時の世には受け入れられず、むしろ迫害を受ける少数派として見なされました。しかし、だからこそ福音は、全世界へと拡がって行ったのです。ここに私たちは二つの神の御心を見ることができます。神は、決して誰かをえこひいきせず、民族主義にも囚われず、真実にすべての人の救いを願っておられるということです。神は、そのために敢えて、ご自分の民として選ばれたイスラエルをも苦しみの中を通され、神に従う者をも日陰の道を通らせたのです。神がご自分の民と呼ぶ者の罪に対しても公平に裁く神の厳しさ、ご自分の民と呼ばない者をも救う神の愛を世に知らせるためです。

 そしても、もう一つ神の御心があります。それは、神は今もご自分を信じる民を「研ぎ澄まされた矢とし、主の矢筒の中に私を隠され」る方だということです。神の救いに信頼し、神に従い、隣人の救いのために働く。そのことは、しばしば地味で、虚しい働きに思えます。そのために世に受け入れられる、表面的な、偽善的な働きに心を惹かれ、誘惑を受けます。けれども、表面的なところに目を向けず、本当に神に信頼し、地道に神に従い続ける者を、神は「研ぎ澄まされた矢」として用いてくださるのです。今はそのための備えの時かもしれないのです。ですから、今結果が見えないことに焦って、誠実さを捨ててはなりません。今「隠され」ているのは、やがて解き放たれるための備えの時なのです。世に受け入れられることではなく、神に用いられるために、誠実に隣人を愛し、神に従う歩みを地道に続けて行く者こそ幸いなのです。「無駄な骨折りをして、いたずらに空しく自分の力を使い果たした」ように見える、その働きこそ、「研ぎ澄まされた矢」とされるための大切な働きであることに目を留めようではありませんか。