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みことばの糧10

2022年7月31日

救いのかぶとと御霊の剣を「受け取る」

救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。                           

エペソ人への手紙6:17

 人間が本当に戦わなければならないのは、神の御言葉に従うための戦いです。聖書には、とくにエペソ書には、キリストの救いを受けた者に備えられた「良い行い」(2:10)が記されています(4:25)。イエス・キリストの救いだけが、これらの行いを喜び、愛する性質を与えてくれます。この行いに完全に生きることができたら、本当にこの世に神の国は実現します。けれども、この世には、この生き方を妨げる様々な誘惑、「暗闇の力」(6:12)があります。人間の本当の敵は人間ではなく、この「暗闇の力」です。そして、この「暗闇の力」に打ち勝つために神が備えられた、神の「大能」(6:10)の武具(6:12)があります。その「神の武具」の内の二つが。「救いのかぶと」と「御霊の剣」です。他の武具(真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え、信仰の盾)と同時に、この「救いのかぶと」と「御霊の剣」を身に着けるならば、私たちはこの戦いに打ち負かされることはありません。戦いそのものは激しいのですが、やがて完全に勝利するときまで、勝利に近づく歩みをさせてくださるものなのです。

そのまま受け取る

 まず、この「救いのかぶと」と「御霊の剣」の力にあずかるために重要なことは、そのまま「受け取る」ことです。パウロは、この「救いのかぶと」とい「御霊の剣」について「取りなさい」と命じています。この「取りなさい」と訳されている原語には、「受け入れる」「歓迎する」というニュアンスがあります。ですから、聖書が伝える「救い」と「御霊の剣」である「神のことば」に対して、自分流に解釈を曲げたり、この世に合わせたり、混ぜ物をしたりせず、聖書が伝えるそのままを「受け取る」ことが重要なのです。と言いますのは、このエペソ書が書かれた当時のエペソ教会でも、現代でも、人間の内には自分に都合の悪いことには耳を塞ぎ、自分の都合の良いことだけ取り入れ、都合良く解釈しようという思いが常に働くからです。しかし、そのように「救い」と「御霊の剣」をねじ曲げるなら、それはすでに神の武具ではなく、「暗闇の力」に打ち勝つ力を失ってしまうのです。ですから、「救い」と「神のことば」をそのまま「受け取る」とは、どのようなことかを理解する必要があります。

救いのかぶとをそのまま受け取る

罪からの救い

まず、聖書の伝える「救い」とは、第一に、神に対する罪とその刑罰からの「救い」です。この「救い」を考える時に、パウロは2章で、人種や国、背景に関係なく、すべての人は本来罪人であり、御怒りを受けるべき部外者であったことを思い起こさせました。聖書を信じていたはずのユダヤ人でさえ、心の中では神のことばに逆らい、御言葉を自分たちに都合良く解釈し、形式的な行いで自分たちの内面的問題を覆い隠してきたのです。私もそのように神に逆らって生きて来ました。

その私たちが、ただ、神の「あわれみ」と「愛」のゆえに、キリストの十字架によって(2:13)救って頂いた。神の民とされ、神の約束にあずかる者として頂いた。これが聖書の教える「救い」です。この「救い」、この関係をこそ、私たちの土台とし、拠り所とする。それが、「救いのかぶと」を「受け取り」、身に着けることなのです。

将来における救いの完成 ~キリストをかしらとして一つとされる~

また、その救いは、将来の完成まで続きます。救われた人々を「一つのからだとし」(2:16)、「ともに築き上げられ…神の御住まいとなる」(2:22)。そしてやがて「天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められる」ところにまで至ります(1:10)。これが、エペソ書が教えて来た救いのもたらす希望です。ですから、キリストが「かしら」(1:22)であり、私たちが従うべき「主」であるところにこそ、私たちの救いがあり、幸いがあるのです。しかし、当時のエペソ人たちはローマ人による支配に苦しんできたために、地上の主人に従わされることを嫌い、精神だけでも、その支配から解放されることを救いだと考えていました。しかし、それは、聖書の教える救いではなく、キリストがご自分のいのちを犠牲にしてまで与えてくださった救いではありません。本当の救いは、キリストを「かしら」としていただく事です。キリストに従うことであり、キリストに従うように地上の主人に従うところにこそ、幸いがある。それが、救いのもたらす希望なのです。パウロは、Ⅰテサロニケ5:8~9でこう教えています。「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。 5:9神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。」。キリストが来臨されるときに、私たちはあなたの支配を待ち望んでいましたと言える者こそ、「救いの望みというかぶとをかぶ」っているものです。

当時、かぶとには身を守る機能と、識別の機能がありました。頭は、体から飛び出た部分であり、いのちにおいても重要な部分なので、真っ先に狙われたからです。しかし、聖書の教える救いとその望みに基盤を置いているならば、キリストが救いによって与えてくださった、いのちを失うことはありません。「良い行い」に相応しく、「神にかたどり造られた」(4:24)、新しいいのちを失うことはないのです。神が与える「救いのかぶと」をそのまま受け取り、拠り所にするところにこそ、本当のいのちの安全があるのです。また、かぶとが識別の役割をしたように、神が救いによって与えてくださった、私たちのいのちの価値をも保証してくれるのではないでしょうか。

御霊の剣をそのまま受け取る

次に、「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい」とパウロは言います。当時のローマ兵の「剣」は、グラディウスと呼ばれる両刃の短剣で、頑丈に作られた鎧の隙間を突き刺すのに適していました。神の与える「御霊の剣」こそ、鎧の隙間を縫うように、相手の弱点を突くことが出来ます。しかし、相手と言っても人間ではありません。たとえ、実際に立ちふさがるのが人間であっても、その人自身が敵ではありません。そうではなく、人間の思考の裏に隠れた、「暗闇の力」です。ですからパウロは、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンのどちらにも肩入れしませんし、どちらにも敵対しませんでした。そのように互いに敵対することこそ、サタンの策略だからです。むしろどちらの心の中にも忍び込んでいる、高慢の罪、救い以外の自分の虚栄を拠り所とする問題を、御言葉によってあぶり出したのです。ユダヤ人クリスチャンでさえ、キリストの十字架がなければ「御怒りを受けるべき子」(2:3)に過ぎないことを告白しました。しかし、キリストの十字架の贖いの故に、「聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族」とされた(2:19)という幸い、希望に目を向けさせます。そして、救いによって新しい者とされ、良い行いをも備えてくださったことを思い起こさせました(2:10、4:24)。このように、クリスチャンの内部にも神に喜ばれる思いと、神に逆らう思いとが混在しています。聖書は、その間を刺し貫き、切り分け、患部だけを取り除く事の出来る「御霊の剣」なのです。イエス・キリストも、ご自分が悪魔の誘惑に打ち勝つために振るわれました(マタイ4:1~11)。人を倒すためではなく、自分の内にも相手の内にも潜む、悪い思いを切り取るための救いの剣なのです。この「御言葉の剣」には、自分自身の認めたくない罪をも示し、神に従い、この世の主人に従うという、当時のエペソ人にとって受け入れ難い教理をも示しました。しかし、そこに抵抗がある教えがあっても、そのまま「受け取る」ことが重要なのです。そのまま「受け取る」ならば、「御霊の剣」は、人間の目に境目がわからない罪の患部を鋭く切り分け、「暗闇の力」からその人を救い出し、救いの祝福の中を歩む勝利を得させてくださるのです。

結論

 ですから、私たちは、聖書が教える通りの救いを、自分のいのちを守り、尊厳を守る「かぶと」としてそのまま「受け取り」、そこに依り頼むところにこそ、本当の安全があるのです。そして、聖書のことばを曲げることなく受け取り、人に敵対するのではなく、罪に打ち勝つために、罪を見わける力を養うところにこそ、幸いを勝ち取る力があるのです。イエス・キリストを信じるならば、神は「大能」の「武具」を必ず与えてくださいます。この救いは、すべての人の目の前にあります。そして、信じているならば、勝利を得る力は目の前にあるのです。大切なのは、それをそのまま「受け取る」ことなのです。