みことばの糧38
苦難の価値 ~生ける希望が約束された苦難~
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
Ⅰペテロ1:6~7
苦難は、できれば受けたくないものです。ときには、なぜ自分だけが人より多くの苦難を受けなければならないのか、という思いがわいてきます。それは、苦難に価値を見いだせないとき、あるいは、価値を感じる前に疲れ果ててしまうときかもしれません。しかし、苦難そのものが悪なのでしょうか。とくに昨今、不快感を与えるものは何でも悪かのように見なされる傾向があります。確かに、何も生み出さない苦難があることは事実です。しかし、むしろ最高の「賞賛と栄光と誉れ」を得させる苦難もある。そして、この希望を与える道、言い換えるならば虚しい苦難を価値ある苦難へと変える道を神は開いてくださった。苦難がない道に希望があるのではなく、虚しい苦難を希望ある苦難へと変えてくださる。ここにこそ、本当に価値ある道があることを聖書は教えているのです。
ペテロの手紙第一は、この苦難の価値について私たちに教えてくれています。これからイースター(復活祭)までの間、キリストの十字架の苦難を覚えるとともに、聖書が教える苦難の価値について見て行きたいと思います。
1、理不尽な苦しみの中にあった人たちへの希望
苦しんだ分だけ、良い結果が見られれば幸いです。この世では、苦しみが幸いをもたらすとは限りません。苦しみがさらに苦しみを呼ぶ現実もあります。聖書は、この現実に対して目を瞑ってはいません。むしろ、直視しています(2:19~20、伝道者の書8:14等)。そして、この手紙の最初の宛て先だった人たちもまた、理不尽な苦しみの中にありました。ペテロの手紙第一は、そのように理不尽な苦しみの中に生きていた人たちに宛てて書かれた手紙です。そして、「善を行って苦しみを受け」るところに、実はとてつもなく大きな希望があることを伝え、励ますために書かれたのがこの手紙なのです(2:20)。
当時、イスラエルでイエス・キリストを信じた人たちは、同国民から大変厳しい迫害を受けました(1:1、参考使徒8:1)。1節の「散って寄留している」人たちの中には、このようなユダヤ人クリスチャンもいたでしょうし、もともと異邦人(イスラエル人以外の人たち)の中で、イエス・キリストを信じた故に、寄留者のような立場に置かれた人たちも含まれていたかも知れません。どちらにしても、当時多くのクリスチャンたちは聖書を信じるユダヤ人からも同国人からも部外者と見なされました。さらに、ローマ帝国の圧政や民族の違い等により、低い身分で、劣悪な労働環境にあった人たちが少なくなかったと思われます(2:18では「意地悪な主人にも従」うように勧められ、2:20では「善を行って苦しみを受ける」ことの価値を説き、2:17では「王を敬」うように勧められています。この「王」は、そのローマ帝国が配置した地域の「王」であり、現地の人にとっても、とくに寄留者にとっては屈辱的な支配をもたらした人物であったと思われます)。その中で、この手紙は、福音を伝える苦しみと言うよりもむしろ、現地の主人(上司)に仕え、地道に善を行うことを勧めています(その中に希望があることを自覚し、その希望をいつでも弁明できるよにしておくことが大切だと3:15で教えています)。当時の環境で、現地で地上の主人に仕え、善を行うこと自体が大変難しく、報いが実感できないものでした。むしろ、イエス・キリストを信じていることが、さらにこの問題に拍車を掛けているように思えたでしょう。しかし、実は、キリストこそがこの問題に「生ける望み」(3節)を与えてくれている。その「生ける望み」を知るならば、一見理不尽で何の報いも伴わないように見える苦しみが、実は、金以上の価値があることがわかる。そのことを、聖書は私たちに伝えているのです。ですから、たとえ理不尽な苦しみであっても苦しみそのものが悪ではない。いえ、この世は苦しみを悪と感じさせるような理不尽な状況を生み出します。けれども、キリストはその理不尽な苦しみをも希望へと変える道を開いてくださった。聖書はそのことを伝えているのです。
2、消えることも朽ちることもない資産を受け継ぐ希望
キリストによる救いは、大きな「生ける希望」を与えることを聖書は約束している(3節)。そして、この希望は、善を行って受ける理不尽な苦難をも、希望に変える保証となる。だからこそ、たとえ理不尽な苦しみを受けても、その苦しみに大きな価値があることをペテロは伝えます。なぜならば、キリストの救いを受けた者は「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐ」ことが約束されているからです。
この世には様々な報いがあります。お金によって買えるモノもあります。しかし、それらのモノは、すぐに時代遅れになり、あるいは壊れ、色あせ、飽き、価値を失っていきます。あるいは、人間関係や立場の向上をもたらすことがあります。これもまた不安定なものです。ちょっとした誤解や事故で、その関係が失われていくことが少なくありません。あるいは訓練という苦難は、もっと前向きな報いをもたらします。それによって技術や体力を身につけ、仕事や生活の幅が拡がるからです。それでもなおいつか失われることがあります。年齢を重ねたり、ときには怪我や病気などです。これもまた、理不尽な苦しみです。
しかし、キリストによって神が与える資産は、「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない」と聖書は約束します。しかし、そのような資産がどこにあるのか。それは「あなたがたのために天に蓄えられています」と聖書は言います(4節)。それが、今の私に何の役に立つのか。そう思うかも知れません。しかし、そのように将来のために投資することは、大変重要な意味を持ちます。オリンピックに出たいと思い、思うだけでなくその素質のある人は、小さな時から訓練を積み重ね、生活を自制します。それですぐに大会に出られる訳ではないかもしれません。しかし、その積み重ねがやがて大きな栄光につながる。そのことを知っているので、遠い将来のために今、犠牲をはらっても努力します。保険も今すぐ役に立つものではありません。しかし、保険があることで、事故が起きたときに大きな助けになります。保険があることで多少リスクを冒してでも、新しいこと、難しいことにチャレンジすることが出来るようなります。しかし、キリストによって約束されている「資産」はそれ以上のものです。「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない」、永遠に輝く資産です。「神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている」からです。それは、その時に手にするまで、ある点で実感できないものかもしれません。しかし、手にしたとき、今までの苦労が吹き飛んでしまう。それほどの価値があります。神はイエス・キリストを「死者の中からよみがえ」らせることによって(3節)、この資産がこの世離れした夢物語ではなく、この世で生きて実感できるものであることを、私たちに知らせてくださったのです。
この希望が約束されているならば、この世でどれだけ理不尽な苦しみを受けたとしても、その苦しみはその人にとって悪いものにはなりません。確かに、時に耐えられない程の苦しみを経験するかも知れません。時には屈辱を味わうかも知れません。それでもなお、その苦しみがこの希望を消すことはできない。だからこそ、苦しみはつらくあっても、不幸ではない。イエス・キリストを信じるならば、この世の理不尽な苦しみが私たちに害を及ぼすことはなくなる。ここにこそ希望があると聖書は教えてくれているのです。
3、信じる者の価値をますます高める苦しみ
ここまで、キリストによる救いは、この世の理不尽な苦しみの害を取り除くことを見て来ました。しかし、これは消極的な面です。キリストによる救いは、もっと積極的な影響を私たちに与えてくれます。それは、理不尽な苦しみが、私たちの価値を高めるという事実です。
この事実を伝えるために、ペテロは「金」を引き合いに出します。金は、原石が採掘されただけでは、輝きを放たず、真価を発揮しません。多くの不純物を抱えているからです。しかし、「火で精錬され」るならば話しは違います(7節)。当時は金の純度を高めるために、火を用いました。るつぼで過熱することを通して金を溶かし、金や銀だけを鉛に結合させます。さらに鉛と結合した金を加熱することで、鉛だけを器に吸収させ金だけを残し、抽出しました。そのようにして純度を高められた金は、劣化しにくく、輝かしい金属の代表でした。しかし、それでも「なお朽ちていく」。変色し、くすんでいきます(当時の精錬技術の限界もあったでしょうし、純金は加工に向きません)。けれども、キリストを信じた者が受ける苦しみは、試練、つまり金の精錬以上の効果をもたらします。不純物が取り除かれ、本当に価値ある性質だけが残っていく。そしてやがて、「称賛と栄光と誉れ」を受けるにふさわしい者へと近づけてくださる(7節)。その輝きは、「火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも」優れた、輝きです。それほどの価値があると言うのです。日本にも若いときは苦労を勝手でもしろということわざがありますが、信仰による試練はそれ以上の価値があるのです。多くの苦難を受けてもなお、それ以上の価値があるのです。
だからこそ、苦しいか、不快か、不公平かだけで、その出来事の価値を評価すべきではありません。たとえ良いことを行って苦しみを受けるような、理不尽な扱いを受けたとしてもです。それさえも神は私たちの益としてくださるのです。社会の不正を放置して良いということではありません。ただ、その問題を解決できなければ不幸ではないのです。たとえ、解決できなかったとしても、神はその理不尽な苦しみさえも、私たちにとっての益と変えてくださる。この信仰こそが、私たちをこの世の汚れか守り、私たちを精錬し、「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産」を得させる神の力となるのです。
4、この生ける希望のためにキリストは苦難を受けてくださった
そして、何よりもこの「生ける望み」を信じるものに得させるために、キリストは十字架の苦難を受けてくださったのです(2~3節)。
まず、キリストの十字架がなければ私たちは「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産」を受け継ぐことができません。なぜなら、神の御前にまったく責められるところのない人はこの世にはいないからです。常に両親を敬い、真実だけを口にし、心においても常に貞節を守り、隣人のものや必要以上のものを欲したことのない人など一人もいません。まして私たちを造ってくださった神に、私自身、必要充分な感謝、敬意、従順を尽くしてきたとは言えません。むしろ、それが必要とさえ思っていなかったぐらいです。私などは、人間の恩人にさえ、どれだけ報いられたかむしろ悔やむ者です。そのような者が精錬されても、金のように抽出されるものは何もありません。しかし、神は、私の身代わりに、キリストに私の罪の刑罰を負わせてくださいました。だからこそ、私も「朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産」を受け継ぐ資格を与えて頂きました。とんでもないことです。しかし、神は、それほど、愛する御子を犠牲にするほど私たち人間を愛され、その資格を与えたいと願ってくださったのです。
さらに、キリストの苦難は、私たちの罪を取り除くためだけではありません。私たちに「生ける望み」を与えるためでもありました(3節)。そこには罪の赦しも含まれますが、それだけには留まりません。キリストの立場に立てば、キリストが受けた苦難ほど理不尽なものはありません。キリストは一つの罪も、心の中でさえ犯さず、すべての力を自分のためではなく、隣人の救いのためだけに用いられました。たとえ理不尽な扱いを受けてもです。それでもなお、人間はこの方を十字架につけ、いのちを奪いました。これほど理不尽な苦しみはありません。当時の十字架は、苦しいだけでなく、非常に屈辱的な刑でもありました。さらに、死で終わりならば、イエスの受けた苦しみは、何の益ももたらさなかったことになってしまいます。まさに、この世の不条理の極致でもあったのです。
それは私たちもキリストのように善を行って苦しみを受けるならば、そこに勝利と報いがあることを私たちに示すためでもあったのです。自分自身の過失や、行いの悪さで苦しんでも、それは何も良い結果を生みません。勿論、悔い改めれば、同じ過ちを繰り返さないための糧にはなります。しかし、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら」(2:20)それ以上の報いを受けることが出来る。聖書は、そしてキリストの苦難は、そのことを私たちに教えてくれています。
だからこそ、私たちは苦しみそのものを悪と見なすべきではありません。苦しみを避けるために、誘惑に負けてはなりません。むしろ、善を行って苦しみをうけるところにこそ、大きな希望があることを信じようではありませんか。キリストを信じて受ける苦難は、色あせることのない、永遠の栄光をもたらすのです。私たちの価値をますます高めるものとしてくださるのです。そのことを信じ、誘惑に立ち向かい、自分を守るためではなく、生きた善を行い、地道な歩みを求めて行こうではありませんか。たとえ、今は報いられなくても、理不尽な扱いを受けたとしても。やがて受ける報いは大きいのですから。
それとともに、理不尽な苦しみを受けている人を主が助けてくださり、この世から少しでも理不尽な苦しみが解決されるように祈り、また取り組むべきことも考えさせられます。とくに、ウクライナへのロシア侵攻から1年を迎え、多くの人が他者の罪の犠牲、理不尽な苦しみを受けています。自分自身、他人事とせず祈り、またできることを考えて行きたいと願います。本当の勝利が何かを主が示してくださり、故意に罪を犯す者を裁いてくださり、苦しみの内にある方たちを顧みてくださいますように。
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