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みことばの糧39

むなしい生き方からいつまでも残る実を結ぶ生き方へ

ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。Ⅰペテロ1:19

 現代は、私たちの目を楽しませるものに満ちています。すぐに新しいものが出てきて、テレビもネットもそのニュースでいっぱいです。しかし、それらが本当にあなたの人生に価値を与えるのでしょうか。私たちが、必死で働き、稼ぎ、支払った時間、労力、お金に見合う実を結んだでしょうか。この世の多くのものは、ひとときの楽しみを与えるかも知れません。しかし、その多くはひとときの幻想に過ぎず、むなしいものです。

 聖書が警告する偶像崇拝はその代表的なものでした。今でこそ、神像、仏像などは軽視される時代ですが、当時はそれが人の心を安心さえ、また満足感を与えるものでした。なぜなら、それらは当時の人の心を満足させる、流行の、また当時の人の理想の姿をしていたからです。それらは人の間違いを指摘せず、命令もせず、ただ人の願いを叶える象徴でした。しかし、だからこそ何も出来ず、何も生まず、何も教えない。むしろ、人に世話をしてもらわなければならないものでした(詩篇115篇等)。まして、その人のことを心から心配し、犠牲を払ってまで私たちの人生に責任を負ってくれるものではありません。この世の多くの楽しみ、栄えは、それと同じ性質を持っています。現代多くの人は宗教を離れています。それは、宗教の引き起こす問題がその一因でしょう。しかし、それと同時に、人の目を満足させる新たなもの、人の手でつくった新たな者が、人の心を惹きつけるようになったからでもあります。とくにネットのコンテンツは、その代表格ではないでしょうか。見ている人に一時的な快楽を与え、惹きつけ、元気にします。確かに、それらが困難を乗り越える励みになることもあるでしょう。けれども、それらは中身のないデータに過ぎず、誰かとともに汗を流し、築き上げた関係もなければ、いのちを生み出すこともありません。確かに、新たな発想、新たな「創造」と呼ばれる感性を引き立てるかもしれません。しかし、それらの「創造」と呼ばれるものもまた、うわべだけの、一時的な、むなしいものではないでしょうか。とくに金や銀でさえ朽ちる、色を失っていくという時の流れで見たときに、それらは本当に泡沫の虚しいものにすぎないことを実感させられるのではないでしょうか。

 しかし、聖書の福音の中にこそ、永遠に変わらない価値があります。

1、永遠に変わらない人の価値

 多くの人は自分の価値を確認したいと願うものです。その時、私たちがしばしば基準にしてしまうのは、周囲の人にどう見られるか、自分の願いがどれほどかなったか、味方になってくれる人がどれだけいるか等ではないでしょうか。しかし、それらのものは、しばしばうわべにすぎず、移り変わりやすく、人の本当の価値を反映したりはしません。けれども、キリストの福音は、その人が何ができるかより前に、まずその人の存在そのもに非常に大きな価値を与えます。それが冒頭の御言葉です。「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです」「贖い出」すというのは、代償を支払って買い取って救うことを意味する言葉です。その代償は何か。それは「銀や金のような朽ちる物にはよらず」とあります。金はこの世で最も高価なものの一つです。と同時に、最もさびにくい金属の一つです。真の純金であればさびないかも知れませんが、24金は傷つきやすく、やはりもろい面を持っています。神が、人を救うために支払われた代償は、その金以上のものだと言うのです。なぜなら、キリストには「傷もなく汚れもない」、つまり、人格・心においても行いにおいても、言葉においても欠点、失敗、間違い、悪さがわずかもないからです。神としての力を除いて、人間として見たときにも、神の目に最も価値ある存在。そのキリストを犠牲にしてまで買い取ってくださった。イエス・キリストの救いを信じた人を、神はそのように価値ある者として受け入れてくださるのです。本来は神に認めて頂けるようなものは何も持っていないにもかかわらずです。私たち自身は、神に感謝もせず、御心を知ろうとも従おうともせず、むしろ神に背を向け、自分勝手に生きて来たにもかかわらずです。

 すべてを知っておられ、永遠に生きておられる方が、最高の価値、しかも罪も染みもない神の御子を代償にしてまで支払う価値をお与えくださった。その価値を損なうものは、何一つありません。時間、災い、苦難、病気、損害。あらゆるものが私たちの持ち物、経験、外見の価値は奪うかも知れません。しかし、その人の人間としての価値は、決して奪われないのです。そのいのちの代価が、限りなく尊い代価だからです。

 卑近な例ですが、私にとって、映画トイ・ストーリーのウッディのあるシーンが、人の価値を教えてくれるうように思います。主人公のウッディは古いおもちゃで、新型のバズに対してねたみと引け目を感じ、自分の存在価値を見失います。しかし、ある時ウッディは、自分の靴の底に刻まれた「アンディ」という名前を見てはっと我に返ります。それは、持ち主の名前でした。ウッディの価値は、何ができるかでも、新しいか古いかでもなく、アンディの名前が刻まれた、アンディにとって大切な存在であったことでした。対してバズは、新型おもちゃとして様々な機能を持っていますが、翼があっても実際に飛ぶことはできなことに愕然とします。私たち人間の価値も、これと似ているように思います。私たちが求めている、価値の多くはバズの新機能のように見た目が良く、高揚感に満たし、自分の存在が何か優れているかのように思わせてくれます。しかし、実際には、それは儚く、虚しく、人生の価値においては思ったよりも力がありません。しかし、人に神の御名が刻まれる時、その人は存在自体が決して忘れられることのない、神にとって価値ある存在として頂けるのです。しかも、そのために「傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血」という最も高価な代償が支払われたのです。ものではなく、神の御子のいのちが支払われたのです。それほど神は、私たちを愛してくださったのです(Ⅰヨハネ4:10)。これ以上に、人間に価値を与えるものはありません。この贖いこそが、人をむなしい人生から価値ある人生へ移してくれるのです。

2、キリストの聖なる生き方に示された希望

 そのように私たちの存在そのものに価値が認められる、しかも朽ちることのない永遠の価値によって保証されることは、何にも代えがたい支え、保証となります。しかし、それだけでは私たちが、生き、行動し、困難と戦っていく価値を保証するものとはなりません。人に本当に必要なのは、自分の人生、思い、力を価値ある、残る、実を結ぶために最大限活かせることです。それこそが、存在だけでなく生きる価値ではないでしょうか。しかし、先ほど見たキリストの贖いは、まさに私たちの存在だけでなく「むなしい生き方から贖い出」すためだったのです(18節)。

 当時の人たちが陥っていた「むなしい生き方」の多くは、冒頭で見たように偶像崇拝でした。いのちもない、人の手で造ったものに過ぎないもののために労していたからです。しかし、これも冒頭で見たように、「むなしい生き方」は、宗教的な偶像だけに留まりません。ひとときの満足感、変動するランキング、レコメンド機能などのように際限なく私たちの欲望をかき立て、新しいものに誘う機能。それらに囚われ、自分の自由に生きているように思いながら、実際には欲望に、またその欲望を利用する何かに支配され、お金だけでなく時間そして人生そのものを浪費してしまう生き方。その生き方から神はキリストの代価によって贖ってくださるのです。

 その生き方は、まず私たちを無価値にしてしまうのは、様々な失敗、道徳的腐敗、違反、そして何より私たちを造り心配してくださる神への背きです。聖書が罪・過ちと呼ぶものです。まず、神はキリストの代価によって、これらの負の遺産をすべて肩代わりしてくださいました。しかし、それだけではありません。本当に人を活かす、価値ある生き方をも示してくださいました。それは「従順な子どもとなり、以前、無知であったときの欲望に従わず、 むしろ、あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい」と言われている生き方です(14~15節)。

 ここで「聖なる者となりなさい」と言われるときに、多くの人は反感や抵抗を覚えると思います。それは、現代「聖なる者」というイメージは、仙人や修道士のようにこの世離れした、実生活とはほど遠い生活をする人生を思い浮かべるからでしょう。しかし、地上で歩まれたイエス・キリストを見るときに、そのような誤解の余地はありません。なぜなら、イエスは大工の息子として両親に従われ、汗を流して、糧を得ておられたからです。また、宗教的に汚れたと言われる長血をわずらう女性に触れられることをいとわず、ツァラアト(旧約聖書で隔離が命じられていた重い皮膚病)の患部にも、直接触れて癒やされたからです。そして、このペテロの手紙もまた、「主権者である王であっても…王から遣わされた総督であっても」(2:13,14)、また「意地悪な主人にも従いなさい」と教えているからです。まさに、この世で汗とどろにまみれた生き方。その姿に聖書は「聖なる者」の姿を示しています。私たちは、このような生き方を追い求める時に、「むなしい生き方」から贖い出され、永遠の栄光に値する、最も確実で、有意義で、永遠に残る実を結ぶ生き方ができるのです。

3、キリストご自身の生涯によって証しされた苦難と希望

 しかし、この世でそんな生き方は通用しない。多くの人は、そう思うかも知れません。意地悪な主人にも従うことに、何の得があるのか。むしろ、貧乏くじをひくばかりではないか。それは気休めにもならない。そう思われるかも知れません。それは現代日本社会には通用しないと言われるかも知れません。しかし、このペテロの手紙を最初に受け取った人たちこそ、まさにそのような理不尽さを味わいながら生きていた人たちだったのです。ローマという異民族に支配され、かつ、その地においても「寄留者」に過ぎない身(1:1)。とくに当時のローマでは、謙遜は美徳ではなく、むしろ恥ずかしいとあざ笑われる生き方でした。そのような社会で、聖書のことばに従って生きて行くことは、あまりにも場違いで、非現実的に思われた。そのような現実に生きている彼らに対して、この手紙は書かれたのです。

 その時に、ペテロはイエス・キリストに目を留めるように勧めます。キリストこそ、ご自分を「召された聖なる方に倣い、…生活のすべてにおいて聖なる者」として生きられた方だからです(15節)。その「聖なる方に倣い」生きた結果、自分が助けた人たちからも裏切られ、十字架で殺されなければならない。最も惨めな人生でした。しかし、もっと広い視野でみると、キリストこそ金でさえ石ころに見えるほどの、重い栄光を持つ方であったことがわかります。この世は、キリストの価値を、ナザレの大工としか評価出来ませんでした。一部しか見ていないからです。しかし神の目には、「世界の基が据えられる前から知られていました」(20節)。人が知らないだけで、ずっと存在し続け、その価値は輝き続けていたのです。だからこそ旧約聖書においてすでに「キリストの苦難」が記されていました(11節、イザヤ53章等)。そして、その苦難に「続く栄光」も証しされていました。その栄光は、神が「キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられ」ることによって、世に明らかにされたのです(21節)。この事実は、見ようとしない人には事実として受け入れられないかも知れません。しかし、この事実が昔も今も、苦難を受けても地道に善を行う人を支え続けているのです。そして、この信仰が、この地上でも一時的ではない価値ある働きを成し遂げる底力を与えてくれます。確かに、本当のキリスト者は歴史の表舞台で輝くことよりも、人目に隠れた地味な、それでいて価値ある働きに関心を持ちます(マタイ6:1~5)。しかし、少し目を開いて見るならば、この二千年間、どのような苦難の中でも、誠実さを失わず、貶められても恨まず、苦しめられても笑顔で、縁の下の力持ちのような大きな働きをしてきたクリスチャンたちを見出すことができるはずです。

4、永遠の栄光のために今心を引き締めて生きる

 「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」とペテロは語ります(13節)。永遠に残る栄光が完全に与えられるのは、「イエス・キリストが現れる(再臨される)とき」だからです。キリストも「苦難」を受けた後に「それに続く栄光」を受けられました。同じように、「生活のすべてにおいて聖なる者」として生きようと、「心を引き締め」、最善を尽くして生きるならば、その人もまた限りない栄光を受けることができるからです。

 イエス・キリストによる救いが罪からの赦しだけだと考え、罪と戦う必要を考えない人は、この御言葉を忘れています。私たちは「 傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によっ」「むなしい生き方から贖い出された」からこそ、再び「むなしい生き方」をせず、永遠の身を結ぶ生き方、つまりキリストのようにこの世に生きながら、この世の汚れに流されず、「聖なる者」としての生き方を選びとるべきなのです。それができるようにこそ、神の御子のいのちが代償として支払われたからです。神に受け入れられるためではなく、すでに神の子として頂いたのだから、私たちの父である「聖なる方に倣」って生きるのです。つまり、キリストに倣って生きるのです。その「聖なる方」こそ、やがて「人をそれぞれのわざにしたがってさばかれる」からです(17節)。

 この世で仕事をする人も、最大限の結果を産み出すために「心を引き締め」て仕事に集中し、最善を尽くします。そのように尽くせば、良い結果を見ることができると知っているからです。しかし、父なる神がくださるものは、それとは比べものにならないほど、永遠の価値をもつ「恵み」なのです。だからこそ、今「心を引き締める」価値があります。たとえ、そのためにひととき苦しむことがあっても、永遠の報いを受けることに比べれば、まだ軽いと言えます。ペテロの手紙を最初に受け取った人の苦難が軽いと言っているわけではありません。彼らは、私たちの想像以上に苦しんに違いありません。しかし、それによって受けられる報いは、その苦しみと引き替えて余りあるほどの、優れた実、「重い永遠の栄光」なのです(Ⅰコリント4:17)。パウロがⅠコリント4:17で「重い永遠の栄光」という言い方をしているのは、それだけ不動であり、不朽であり、ずっしりとした価値があるからです。

 だからこそ、楽をして、今心を楽しませることだけに価値を見出すべきではありません。そのこと自体を目的とするときに、私たちはしばしば虚しい生き方に捕らえられ、悪い欲望の奴隷とされてしまうからです。多くの人は、聖なる生き方を求めることは、束縛されることと感じるかもしれません。しかし、そこにこそ確かな報いが約束された、最もむなしくない、確実で、最も自分の人生の価値を発揮する生き方があるのです。キリストは、地上の生涯、天を含めた永遠の生涯、そして十字架の苦難と、それに続く栄光を通して、私たちにそのことを示してくださったのです。このキリストを見て、信じて、私たちもむなしい生き方から、離れ、永遠の重い栄光をもたらす、永遠の実を結ぶ、キリストに倣う聖なる生き方を追い求めようではありませんか。それは、しばしば低くされ、地上の主人に従う生き方です。しかし、そこにこそ私たちの人生の価値が、最も輝く場所なのです。キリストがそうであったように。