カテゴリー

みことばの糧40

神ご自身が選ばれた礎石 ~この方に信頼する者は決して失望させられることがない~

主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。Ⅰペテロ2:4

 人が苦難に遭ったとき、その苦難を乗り越えるための秘訣は何でしょうか。現代多くの人は、自分の気持ちを明るくする感覚的なものに希望を置きます。「明日は必ず来る」、「笑う門には福来たる」、心を励ます歌などです。それらのものは、気持ちを勇気づけ、落ち込まないようにし、心を前向きにするのには確かに有効でしょう。気分転換は、確かに必要です。とくに息が詰まるほど極度の苦しみの中にいるときは、まず落ち着けることが何より重要な時が有ります。しかし、そのように漠然とした希望は、心は励ましますが、未来を保証するものではありません。何より人格を成長させるとは限りません。むしろ、思いやり、忍耐力、心の成長という面では、マイナスに働くことさえあります。

 聖書は、苦難の渦中にある人に対し、安易な励まし、気休めなどは言いません。むしろ、厳しいと思えるメッセージがあります。とくにこのペテロの手紙は、そうです。苦難の中にある人に、主人に仕える生き方、見返りがなくとも善を行う生き方、偽らない真実で誠実な生き方を勧めます。今回お伝えする2章でも冒頭の1節で「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」と語ります。とても励ましになるような言葉に思えません。しかし、イエス・キリストを礎石として、イエス・キリストに土台を置くとき、このような生き方に最も確実で、確かな希望を与えられるのです。そこには、「この方に信頼する者は決して失望させられることがない」という保証があります(6節)。それだけでなく、苦難を通してその人に「火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価」な価値を与えてくれる。そのことが約束されているのです。

 そして、何よりキリストは、この地上の生涯を通して、この約束が確かであることを証明してくださいました。ここにこそ、最も確かな苦難に対する希望があるのです。どれほど理不尽な苦難であっても希望に変える。そのような力が福音にはあり、保証がある。そのことをこの箇所は私たちに教えてくれます。

1、真実に生きるところにこそ希望がある

 ペテロは1章において、キリストを信じる人は、神ご自身がその人を貴い神の御子のいのちをもって贖い、その人生に神の御子に準ずる価値を与えてくださったと教えました(1:18~19)。そして、そのように信じた人は、神が「朽ちる種からではなく朽ちない種から」生んでくださった。だからこそ、「朽ちない種」である、聖書の御言葉に従って生きるならば、必ず永遠の実を結ぶことが出来、しおれることも、散ることもない栄光に輝かせてくださる。その約束を教えました。だからこそ、キリストを信じた人が希望を持って歩むために必要なことは次のことだと教えます。「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい」(1~2節)。ここにこそ、苦難をも益と変え、優れた報いと栄光を受ける道があるからです。

2、この世が捨てた希望

 しかし、「すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」ることに、どのような希望があるのか。この世は、それほど甘くない。むしろ、正直者がバカを見るのがこの世。そのようなことで、苦難を乗り越えられるなら、誰も悩まない。そのように感じる人は、少なくないでしょう。実際、この手紙を最初に受け取った人たちも厳しい現実の中にいました。自分の故郷を離れ、文化も価値観も違う人たちの中に寄留者として生きなければなりませんでした。しかも、当時はローマ帝国による圧政があり、奴隷として働かされている人も少なくありませんでした(参考13節以降)。彼らは、今の私たちが直面する現実以上に、厳しい現実の中で生きていたのです。そのような社会で「すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求め」ることが、どれほどの力になるか。希望があるか。そのことを実感できない中にいました。だからこそ、この事実に目を留めなければならない。その事実こそ、冒頭で取り上げた「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です」という言葉なのです。

 この言葉の通り、イエス・キリストは「人には捨てられ」ました。イエス・キリストは、「すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」るどころか、最初から一切持ちませんでした。むしろ、「その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった」のです(22~23節)。その姿は、大変弱い姿に、人の目には映りました。聖書を信じ、救い主に期待していたはずの人たちが、「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから」と言ってののしったのです(マタイ27:42~43)。それでも決して「ののしり返さず、…脅すことをせず」、最後まで真実であり続けました。むしろ、ご自分をあざける人たちの赦しまで、神に願われました(ルカ23:34)。その結果、十字架刑で重罪人のようにして苦しめられ、辱められた挙げ句に、死んでしまいました。まさに、そこには絶望しかないように見えたのです。イエスの十字架は、1節の生き方がこの世ではまったく通用しない、むしろ「人には捨てられ」る生き方であることを証明したかに見えたのです。

3、神に選ばれた希望

 しかし、4節のことばには続きがあります。「人には捨てられた」では終わりません。「…が神には選ばれた、尊い生ける石です」と続くのです。その言葉の通り、神は、このイエスを「死者の中からよみがえら」せ(1:3)、神の右の座に挙げ、このイエスの生き方こそ神の御前に価値があり、報いと栄光に値することを証明されたのです(参考1:7)。確かに、「人には捨てられ」ました。しかし、「神には選らればれた、尊い生ける石」であることも証明されたのです。キリストの復活は、まさにこの希望が現実であることの証明でした。そして、その復活を信じた人たちもまた、この希望が事実であることを証明したのです。特に聖書の「使徒の働き」には、その証しに満ちています。キリストがとらえられた時には、「そんな人は知らない」(マタイ26:72)と言って、逃げてしまうペテロ。イエスが十字架につけられ、殺されれてしまってからは、家に鍵を掛けて閉じこもってしまった弟子たち(ヨハネ20:19等)。その弱かった弟子たちが、キリストの復活後は、大胆に語り、迫害にもめげず、だからといって、ののしり返すことも、恨みを口にすることなく、ますます大胆に希望を語っていったのです。どれほど困難に遭っても、誠実さを捨てることなく、隣人を愛し、敵をも愛し、堅く立っていったのです。

 このペテロの手紙は、そのようなペテロ自身が書いた手紙です。かつてあれほど臆病で弱かった自分が、「主のもとに」行き(4節)、「この方に信頼」し(6節)、「主」なるイエス・キリストが生ききられたように生きたとき、確かに「失望させられる」ことが決してなかった。確かに数多くの苦難を経験したけれども、キリストに信頼し、キリストが歩まれたように歩むことこそ、最も優れた解決だということを身をもって経験しました。だからこそ、大胆にこのメッセージを伝えることが出来たのです。そして、今はさらにこの言葉を信じた多くのクリスチャンの証しをも加えて、この言葉は今の私たちにも、希望がここにあると力強く語っているのです。

4、保証され証明された希望

 確かに、キリストの生き方にならい、キリストの言葉に従うところには、「人には捨てられ」るような経験をするかも知れません。しかし、同時に「神には選ばれた、尊い生ける石」であることも経験させていただけるのです。この希望は、決して耳に甘い言葉ではありません。むしろ、耳に痛い言葉かも知れません。けれども、漠然とした保証のない希望ではありません。旧約聖書が預言し、保証した希望です(詩篇118:22、イザヤ28:16)。

 神が保証し、キリストによって証明された希望なのです。さらに、ペテロをはじめ多くのクリスチャンたちを弱い者から強い者へと変え、不誠実な者から誠実なものに変え、愛のないものから豊かに愛を持つ者に変えた希望なのです。イエス・キリストこそ、「人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石」なのです。だからこそ、私たちはたとえこの世において、力がないように見えたとしても、偏見を捨て、「 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求め」るようにして、聖書の言葉を求め、受け入れ、従うべきなのです(2節)。「それによって成長し、救いを得る」(2節)ことを、キリストを「死者の中からよみがえら」せた神が、保証してくださるのです(1:3)。

5、いつくしみに満ちた暖かい希望

 とは言え、この言葉は、苦難の渦中にある人にとって厳しすぎる響きを持っていることは間違いありません。そこで、ペテロは彼らに「主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わ」ったことを思い起こさせます(3節)。この世の主人は、思いやりがあり、判断力に優れ、結果をもたらす力のある主人ばかりとは限りません。むしろ、この手紙が書かれた当時は、奴隷をもののように扱う「意地悪な主人」も少なくありませんでした(18節)。けれども、私たちをキリストの尊いいのちをも支払って買い取ってくださった神は違います。そのためにご自分のいのちさえも犠牲にされた「主」、キリストは違います。キリストは、私たちの過失や、背きを責める権威を持ちながらそれを行使する前に、ご自分が私たちの身代わりに私たちが受けるべき刑罰を受けてくださったのです。ペテロは、最も愛すべき主であるキリストを三度も知らないと言い、裏切った者でした。そのペテロをイエスは見捨てず、むしろ重要な働きに用いてくださった。ペテロ自身が、この主の「いつくしみ深」さを人一倍味わったのです。このような方が、私たちの主人となってくださるならば、このキリストに従う生き方は、どれほど安心に包まれているでしょうか。たとえ、この世が理不尽な扱いをしても、私たちの主キリストは、命がけで私たちの後ろ盾となり、先駆けとなり、私たちが栄光を受けるまで捉え導いてくださるのです。このような方を主人とする人は、どれほど幸いでしょう。この世でも、思いやりと、判断力、行動力にあふれた主人を持つ人は幸いです。失敗してもカバーし、責任を取ってくれる主人に送り出される人は、どれほど心強くチャレンジできるでしょうか。私も職場でそのような経験をさせていただきました。まして、キリストを信じる人は、私たちのためにいのちさえも捨ててくださった、神の御子が後ろ盾となってくださる。これほどに心強い保証はないのです。

 だからこそ、ここに苦難を乗り越える、最も確かな希望があるのです。すなわち「すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求め」る生き方です(1~2節)。キリストが歩まれた生き方であり、キリストが保証してくださる生き方です。キリストを「神に選ばれた」「生ける」「尊い要石」と信じる生き方です(6節)。確かに、決して耳障りの良い言葉ではありません。非現実的と思える響きを持つ言葉かも知れません。しかし、ここにこそ最も力強い保証のある希望があるのです。この希望を信じていただきたいのです。