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2023年 イースター礼拝

2023年 イースター集会

三本の十字架
イースターは、イエス・キリストの復活を記念するキリスト教のおいわいの日です。
今年は、復活に先立つ十字架にとくに目を留める時を持ちます。
人の目に弱く見える十字架に示された希望があります。

わたし(イエス)は、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。―聖書―

 

4月 9日(日)

イースター礼拝
午前11:00~12:00
ライブ配信はこちら
イースター子ども会
午前 9:30~10:30
イースター 夕礼拝
午後2:30~3:30
ライブ配信はこちら

※どの集会も参加費無料です。

イースターをご一緒に祝いませんか

イースターは、無実の罪で十字架にかけられたイエス・キリストが三日目によみがえられた日です。よく卵に色を塗ったりするのは、卵が新しいいのちを象徴するからです。また、ユリをかざることもあります。ユリは、長い冬の間、目に見えない土の中で球根のまま過ごします。しかし、厳しい冬が去った後によみがえったかのように芽吹いて、花を咲かせるからです。
聖書の教えるキリストの復活は、私たちに新しいいのちの希望を与えます。このイースターを御一緒に祝いませんか。

 

キリストの十字架 ~平和を実現するの神のわざ~

こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。
ー 聖書 (エペソ人への手紙2:15~16) ー

平和を壊すもの

平和は、いつの時代も多くの人の願いです。それにも関わらず、平和は人類の歴史で最も難しい課題の一つです。平和という時、大きな視野から見れば戦争、侵略と言った国家間の課題です。それと同時に、地域・職場・家庭といった非常に身近な面でも、やはり大きな課題となります。そして、その原因は事の大小にかかわらず、あまり変わりません。平和を壊す一つの大きな原因は、互いが自分の正義を振りかざすことにあります。そして自分の主張を通すために、力によって相手を支配しようとするところにあります。その力は、権力、武器の力、人脈的圧力、金の力、話術等様々です。この問題に対し、多くの人はやはり武器の力、人脈的圧力、金の力、話術等で解決しようとします。確かに、力の行使に対してそれを止められるのは、力しかないように思えます。けれども、歴史を振り返ってみるとき、力によって解決できたことがあったでしょうか。一時は、解決したように見えても、恨み、報復、無気力等様々な弊害を呼んできたのではなかったでしょうか。

敵意を滅ぼす十字架

しかし、そう言うキリスト教が同じことを繰り返してきたのではないか。そう思う方は少なくないでしょう。残念ながらそれが事実です。しかし、本当に聖書の教えに立ち返るならば、自分はキリスト教だユダヤ教だと言っている人自身が、聖書の教えからはずれてしまっていることが少なくありません。冒頭の聖書が書かれた当時もまさにそうでした。ユダヤ人たちは、自分たちこそ聖書を知っている、神の選びの民だとの自負がありました。異邦人のクリスチャンたちは、自分たちこそ知恵がある。キリストを信じているという自負がありました。けれども、キリストの十字架は、どちらのプライドもへし折ったのです。聖書は、パウロという一人のユダヤ人クリスチャンの告白を通して示します。千年以上神を信じて来たはずのユダヤ人もまた、神に従えておらず、むしろ神の怒りを受けなければならない状態であったこと。そして異邦人は異邦人で、ずっと神に背を向けて、自分が正しいと思う自分勝手な道を生きて来たことを示しました(エペソ2:1~3)。パウロは、自分自身も例外としません。キリストの十字架を目の前にするときに、誰も自分の方が正しいと誇れない。私もそうです。私も、神の御前に罪人です。聖書を教えてはいますが、自分が他の人より正しいとはまったく言えません。ただ、キリストが私の身代わりに十字架にかかって死んでくださったから神に受け入れて頂いたに過ぎないのです。
しかし、そこにこそ、驚くべき平安と平和、喜びがあります。一人一人がキリストの十字架を正しく見上げるとき、そこには他の力では到底なしえない、揺るぎない平和があるのです。それは、机上の空論ではありません。現実にキリストご自身、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった」結果が十字架です(Ⅰペテロ2:23)。そして、当時最も対立していた者達同士の間にも、現実に平和が築かれました。当時パリサイ人であったパウロと無学な漁師のペテロも、本来相容れない立場でしたが、キリストの十字架によって互いに言うべきことは言いつつ、尊敬し合う関係が築き上げられて行ったのです(ガラテヤ2:6~14、Ⅱペテロ3:15~16等)

復活の意味

キリストの十字架は、確かに武器に対抗する力もなく、むしろ力に屈し、死んでしまった象徴にしか見えないでしょう。けれども、十字架の本当の意味を見上げるとき、だれも自分の正しさを主張することができません。キリストの十字架こそが、争いの本当の原因を打ち砕き、人に本当の平和をもたらす神の力なのです。キリストが十字架で死んで終わったならば、確かに十字架は、無力さの象徴に終わったかも知れません。しかし、神はキリストをよみがえらせ、キリストのように力に力で対抗せず、ご自分を犠牲にしてでも人を救う生き方に勝利を宣言されたのです。そして、キリストによってプライドを打ち砕かれた人たちも、キリストの復活があったからこそ、それで意気消沈せず、むしろ力に満たされていったのです。

私自身も、自分の力だけに目を留めるならば、日々戦争や不公平、様々な問題を見聞きしつつ、自分の無力さに打ちのめされる思いをしております。しかし、聖書が教えるキリストの十字架と復活にこそ、平和を実現する力があります。聖書が教える十字架と復活の意味をともに学び、ともにイースターを祝う時を持ちませんか。