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みことばの糧35

ことばの持つ力 ~自分のことばを制する知恵~

私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。

ヤコブの手紙3:2

 人の「ことば」は、大変大きな影響力を持ちます。一端人の口から出ると、人の耳に入り、心に入り、さらに伝達されて多くの人に影響を与えることがあります。だからこそ、多くの人は「ことば」に気をつけます。中には非常に慎重に「ことば」を選ぶ方もおられます。聖書も、「私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です」と言って、「ことば」の難しさを語ります。しかし、聖書が「ことばで過ちを犯さない」と言う時に、多くの人が考える「ことば」「制御」とは大きく違います。恐らく多くの人が「ことば」を選ぶのは、いかに人間関係に波風立たせないか、人に気持ちよく動いてもらうか、自分の思いを正確に伝えるか、自分や人の心を元気にするか、といった点ではないでしょうか。しかし、聖書が言っているのは、人の心に与える一時的・感情的影響ではなく、もっと本質的な影響のことです。そして、その問題が神に問われ、最終的に自分にかえってきてしまう。その問題を教えています。この問題は、「私たちはみな、多くの点で過ちを犯す」と言われているように、非常に難しい問題です。しかし、だからこそ、私たちが本当に取り組まなければならない重要な課題なのです。聖書が、このように語るのは、多くの人が取り組むべき方向性自体を見誤っているからなのです。

1、「ことば」の影響力

 ヤコブは人の「ことば」の影響力がいかに大きいかを語ります。馬は口にくつわをはめるだけで「馬のからだ全体を思いどおりに動かすこと」ができること(3節)。大きな船も「ごく小さい舵に」によって強風の中でも「舵を取る人の思いどおりのところへ導かれ」ること(4節)。それと同じように、「舌も小さな器官」であるにも関わらず、非常に「大きなこと」を言うとヤコブは語ります。それだけ「ことば」は、良い影響も与える可能性も持っているのでしょう。しかし、ヤコブは、その口から出た「ことば」が、「からだ全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれ」ると警告しています(6節)。それは、まるで「小さな火」「大きな森を燃やす」ようです(6節)。今でも、ネットの世界で「ことば」が問題を起こし、批判が集中することを炎上と言いますが、「ことば」にはそのように、たった一つのことばが、火が燃え広がるようにどんどん影響を広げて行く特徴があるのです。しかし、ヤコブはその火の影響について人から批判されることを問題視していません。そうではなく、人間自身を「汚し」てしまうこと。そして、その人の「人生」を狂わせてしまう。そのような恐ろしい影響を与えることが多い。この点を警告しているのです。

 確かに、自分の「ことば」が自分の立場に与える影響は小さくありません。けれどもそのことよりも、もっと恐れなければならないことは、その「ことば」が人を「汚し」てしまうことであり、人の人生を狂わせてしまうことなのです。「ことば」は、それほどの力をもった「火」なのです。

2、悪影響を与える「ことば」とは

 では、聖書が「過ち」と言い、火のように人を「汚し」「人生の車輪を燃や」すと言っている、その「ことば」は、どのような「ことば」なのでしょうか。

 それは、第一に「自慢」です。3~4節でヤコブは、小さなものが大きなもの全体を動かす例を挙げた後に5節で「同じように、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します」と語ります。「大きなことを言って自慢」するとは、本来の自分よりも大きく人に見せようとすることです。日本人はどちらかと言うと自慢する人を嫌いますので、あからさまな「自慢」をする人や、する相手は限られるかも知れません。ただ、明らかでなくとも自分の印象を良くするために、自分の内面を変えることよりも、人によく見られようとして「ことば」を選ぶことは少なくありません。あるいは、一部のよい面を誇張して、悪い面を覆い隠すこともあります。それもまた「自慢」と同じ性質を持ちます。本来の自分よりもよく見せようとすることに変わりはないからです。そのような「ことば」が人に伝染し、内面よりもうわべだけを大切にする世の中を造り出してしまう。世の中がそうだからと言われるかもしれません。しかし、その世の中は、一人一人の人間が集まって造り上げているものでもあります。いつの間にか自分もそこに荷担してしまっている。そのことが、実は恐ろしいことなのです。現実とは結びつかないうわべだけの「ことば」は、確かに一時的に人を元気づけたり、人間関係をスムーズにするかも知れません。しかし、その影響は「火」のように燃え広がり、多くの人を汚し、人生を狂わせて行くものなのです。

 悪影響を与える「ことば」として聖書が挙げている「ことば」は、矛盾したことばです。とくにヤコブがこの手紙を書いた時代、問題になっていたのは口ばかりが達者な人たちでした。彼らは話術に長け、人の心を虜にする力を持っていました。この世は、そのように人の心を惹きつけ、多くの人から人気を得る人が優れた人だと見る傾向があります。そして、その教えも優れていると評価されることもあります。しかし、当時問題となっていた人たちの特徴に、「舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪」うという問題があったようです(9節)。神を誉め讃えると言いながら、ある人たちのことは褒めつつ、ある人たちの悪口・陰口を言う。しかし、それは大きく矛盾しているとヤコブは言うのです。なぜなら、あなたが悪口を言っている相手も「神の似姿に造られた人間」である。それなのに、「神の似姿に造られた人間」の悪口を言うということは、その人の造り主であり、人の姿のもとである神ご自身に対して悪口を言っているのと同じ。聖書を読んでいるならば、そのことを知っているはず。それなのに、そのような態度をとってしまうことは、非常に矛盾している。だからこそ、神の教えを伝えると言いながら、実際にその人の「ことば」が人を汚してしまい、人の人生を狂わせてしまう。人に神の祝福を伝えながら、実際には神に呪われる生き方を伝えてしまう。そのことをヤコブは警告しているのです。

 この問題は、とくに聖書を教える教師が最も気をつけなければならない問題です。ヤコブ自身、この問題を他人の問題として考えてはいません。9節で「私たちは」と言っている通り、ヤコブ自身も同じ問題を抱えており、本当に気をつけなければならないと自覚しています。同じように、この問題は、まず私自身に言い聞かせなければならない問題です。それと同時に、人に教えるあらゆる立場の人、あるいは自分の「ことば」が人に影響を与える立場にある人すべてに当てはまる問題でもあります。と言いますのは、人は自分の意見を受け入れてもらうために、無意識に矛盾した論理を組み上げてしまうものだからです。他の人の問題が指摘され、自分は大丈夫だと言える論理。ある人は、それをあからさまに言いますし、ある人は非常にカモフラージュされたきれいなことばで語るかも知れません。しかし、本質は同じです。その時は、自分が嫌われることを恐れてことばを出すかもしれません。しかし、そのために矛盾した論理を組み上げて語るとき、その「ことば」が大変恐ろしい影響力を持ってしまうことを知らなければなりません。一端人の口を出れば、「ことば」を発した人の意図を離れて、火のように拡がって、影響を与えていくからです。

3、問題は「ことば」の制御よりも心

 このようにヤコブは、「ことば」の与える影響力、しかも悪い影響を与える「ことば」の問題について伝えて来ました。現実がともなわないことば、矛盾したことば。そのようなことばが、火のように人を汚し、滅びに誘ってしまう。人は、そのような「ことば」「過ち」を犯しやすいもの。そして、その「過ち」に対して、神ご自身が「厳しいさばき」をくだすこと(1節)。とくに人に教える立場の人は「より厳しいさばきを受け」ることをヤコブは教えます(1節)。

 しかし、だから「ことば」で過ちを犯さないように気をつければ良いということなのでしょうか。確かに、ヤコブ書は信仰だけでなく行いも重要であることを伝えて来ました。その点で言えば、心だけでなく「ことば」も大事というメッセージがここにあることは確かでしょう。しかし、ヤコブは、信仰よりも行いが大事とは一言も言っていません。信仰と行いは本来一体であるはずだと伝えて来たのです(参考:マタイ12:33~34)。それと同じように、本来ことばと心も一体です。ニュースでもしばしば、ことばの失敗が話題になります。しかし、それは思ってもいないことばが、口から出て失敗したのでしょうか。いいえ。ほとんどの場合、思っていたことが隠しきれずに、本音が出て失敗したということではないでしょうか。聖書もまた、マルコ7:20~23でこう言っています。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです」。ですから、人の口から現実がともなわないことば、矛盾したことばがでて他の人を汚すのは、そのことばを出した人自身の心に「悪い考え」が潜んでいるからに他なりません。この「悪い考え」を取り除くこと。そのために取り組むこと。これこそが、本当に必要な取り組みなのです。そして、そのように自分ことばの矛盾やむなしさに気づき、その根源である「悪い考え」に気づけることこそ、神の知恵なのです。その知恵を神に求めるべきなのです(1:5)。

4、ことばと行いが一体なった人 イエスとそのことばこそ神の知恵

 「ことば」は、火のように燃え広がり、人を汚し、人生を狂わせ、神の裁きを招きます。そして、その「ことば」は、私たちの心にある「悪い考え」から出てきてしまいます。その「悪い考え」を見分け、取り除くことこそ、私たちを救い、本当の平安を実現するものです。では、その「悪い考え」を見分け、取り除くには、どうすればよいのでしょうか。この点でも、聖書は救い主がおられることを私たちに告げています。その方こそ、イエス・キリストです。なぜなら、イエスこそ常にことばと現実が一致していた方、そして、「その口には欺きもな」く、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった」方だからです(Ⅰペテロ2:22~23)。確かに、イエスは当時の教師たちの間違いを、恐れることなく大胆に指摘されました。しかし、ご自分の教えの正しさを主張するために人を批判したり、陰口を言ったり、間違った人を訴えたりすることは、決してなかったのです。このようなイエスの「ことば」こそ、私たちを「汚れ」からきよめ、歩むべき道を示すいのちのことばです。イエスのことばは、この世を離れた書斎の中から語られたことばでも、ご自分の行動が伴わない理想論でも、痛みの伴わない浮いたことばでもありません。イエスご自身、ローマが支配し、サドカイ人、パリサイ人と言った派閥が支配する世の中で真正面いから行きながら語られたことばです。実際に、多くの「ののしり」を受け、ご自分が救った人からも「苦しめられ」ながら語ったことばです。世が見向きもしない人の叫びを聞き、その心に耳を傾けながら語ったことばです。常に、心の中をご覧になる神の御前に吟味しながら語られたことばです(ヨハネ5:30)。そして、十字架の苦しみさえも受け通された方のことばです。なにより、神であられながら、私たち人間とまったく同じ弱さ、同じ立場を経験され、いいえ、最も低い立場を経験されながら語ったことばです。

 このことばこそ、いのちのことばです。私たちを汚れから救い、自分の心にある「悪い考え」を見分け、取り除く生ける神の知恵なのです(ヨハネ15:3、コロサイ2:3等)。イエスの歩まれた歩みとその歩みの中で語られた「ことば」とに目を留めていただきたいのです。そして、すでに信じているクリスチャンも、人にどう受け入れられるかではなく、神の御前に心、考え方、動機、目的、ことばを吟味し、きよめられ、日々、真実なことばを語れるように求めて行こうではありませんか。