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みことばの糧54

神が引き寄せない限り人は救われない ~神はへりくだる者を救われる~

わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。ヨハネの福音書6:44

 この言葉は、多くの人にとって抵抗があると思います。クリスチャンでさえも、しばしば抵抗を感じる言葉ではないでしょうか。とくにクリスチャンは、どうしたらより多くの人が福音を信じてくれるか、としばしば考えます。ところがこのヨハネ6章を読みますと、イエスはむしろ人が信じたくなくなるように語っているようにさえ思えるのです。せっかくイエスを慕って追いかけて来たユダヤ人たちに対し、イエスはかえって彼らが信じ難いこと、彼らが怒るようなことを敢えて語られているからです。また、ある人にとってこの言葉は、自分は選ばれていない、救われないと宣言しているように思えるかも知れません。

 けれども、この福音書を書いたヨハネは、この福音書はすべて「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るため」に書かれたとはっきり言っています(20:31)。ではなぜ、イエスは敢えて彼らは絶対に救われないと言っているように思える言葉を、敢えて語ったのでしょうか。そして、ヨハネはその言葉を敢えて記したのでしょうか。

 それは、人間のなかにある思いが、神の救いを妨げているからです。私は「知っている」(42節)。この思いこそが、多くの真実から目を反らしてしまいます。「知っている」と思っている人は、自分が「知っている」と思っている知識に反する事は絶対に受け入れません。ところが、私たちが「知っている」ことは、実際にはほんのわずかです。ネットでも「知っている」という思いが、どれだけ多くの思い込みを生み、真実をねじ曲げ、問題を引き起こしていることでしょうか。そして、この「知っている」という思いが、神の救いを妨げています。そして、しばしば神を信じている、「知っている」と思っている人自身が、この「知っている」という思いのゆえに、神から離れてしまっている現実があるのです(Ⅰコリント8:2、ヨハネ9:41等)。

 しかし、私たちが本当に自分の知識の限界を認め、むしろ無知を認め、神ご自身に教えられることを願うならば、神は必ずその人に真実な知識を与え、救い主を知るように導かれ、永遠のいのちを得させてくださるのです(44節)。

1、「知っている」という思いの問題

 当時イエスを追いかけたユダヤ人たちは、もともとイエスに好意を持っていました。なぜなら、イエスがたった五つのパンによって、自分たちの空腹を満たしてくださった、その奇蹟を経験していたからです。イエスが自分たちの願いを聞いてくれる間は、彼らはイエスを信じていられました。けれども、イエスが「わたしは天から下って来たパンです」(33~35, 41節)と語ったとき、彼らの思いは一変しました。イエスを信じたいという思いは、一瞬にして反発心へと変わったのです。それは、イエスの語ることが彼らの「知っている」事実と相反したからです。

 彼らは「あれは、ヨセフの子イエスではないか。私たちは父親と母親を知っている。どうして今、『わたしは天から下って来た』と言ったりするのか」と言って反発しました(42節)。彼らは、イエスの「父親と母親を知っている」と思っていました。ところが、イエスの語ることは、この「知っている」知識と相反する。マリアとヨセフの子が「天から下って来た」など、あり得ないし、あまりにばからしく思えたのです。

 しかし、彼らの「知っている」事実は、余りに狭いものでした。イエスが「天から下って来た」という事実を信じられないとしても、それでもなお彼らは無知でした。なぜなら、彼らはナザレで育ったイエスが、ベツレヘム生まれだと言うことを知らなかったからです(参考1:46、7:27等)。少なくともイエスがベツレヘムで生まれたことさ知っていれば、彼らはイエスが救い主であると気づけたはずです(ミカ5:2、マタイ2:5)。また、マリアがヨセフを身ごもったのは、ヨセフと結婚する前であったことも知りませんでした(マタイ1:18)。もし、処女降誕が信じられなかったとしても、ヨセフと結婚する前にマリアがイエスを身ごもっていた事を知っていれば、彼らはヨセフとマリアを姦淫罪で責めていたはずです。婚前交渉は、イスラエルにおいて姦淫の罪だからです。しかし彼らはイエスの父親が「ヨセフ」だと思い込んでいました(42節)。彼らは天のこと以前に地上のことでさえ、イエスについて知らないことだらけだったのです。それにも関わらず彼らは「私たちは父親と母親を知っている」と思い込んでいました。確かに、現在イエスの法的家族としての父母はヨセフでありマリアでありました。けれども、彼らはイエスについてまったくと言ってよいほど知らなかったのです。

 私たちも、「知っている」と思っていることのほとんどは、曖昧な知識ではないでしょうか。たとえ事実であったとしても、その周辺事実については、知らないことが多く、思い込みが多いものです。歴史的事実は、多くの場合、当時の支配者に都合良く書かれると言います。ましてネットから得た知識は、事実が検証されていないものが多いのが現実です。さらにネットは、事実であるかどうかより、自分がよく検索するもの、つまり自分に都合が良い、自分の聞きたい情報ばかりが集まってきます。そこから得られる情報は非常に偏った、不確実な情報です。現代は情報過多の時代と言われますが、その情報の多くはあまりにも不正確で偏向しています。そして、自分に都合の悪い情報は見ようとしません。

 本当の知識は重要です。しかし、「知っている」という思いが、私たちを盲目にしてしまいます。「知っている」という思いが自分に都合の悪い真実から目を背け、ますます真実から離してしまいます。そして何より、この「知っている」という思いが、人間を神から引き離し、救いから遠ざけてしまうのです。「救い」と言う時に、宗教に入るとか、入らないということではありません。当時聖書を読み、聖書を教えている人たち自身が、「知っている」という思いの故に、神を、救い主を知ることができなかったのです。私たちは、まず、自分がいかに無知であるかを認めなければなりません。そして、本当に知っている方に心を向けることが大切です。この世のことにおいても、そうです。そして、何より天地万物をお造りになり、私たちの心の中までご存じの、本当の神に教えられることを求めなければなりません。そのように「神によって教えられる」人を神は必ず救い主のもとに「引き寄せ」、救いを得させてくださるのです(44節)。私たちは、真実を知るためには、まず自分がどれだけ知っているかではなく、どれだけ知らないことがあるかに目を向けなければならないのです。

2、神が引き寄せてくださるならば必ず真実を知り救われる

 今まで見て来たように、私たちが「知っている」と思っている限り、その思いが邪魔をして、真実を知ることが出来ません。どれだけ努力しても、聖書を読んでも、博学でも、神を知ることは出来ず、救い主を信じることはできないのです。

 しかし、自分の無知を悟り、本当の神から教えられることを願うならば違います。神ご自身がその人を「引き寄せて」くださいます。そして、義と認め、いのちに必要なものを常にあたえ「永遠に生き」させてくださるのです(51節)。

 実際にイエスの弟子となった人、とくに12使徒となった人の中には、無学な漁師が複数名いました。疑い深いトマスもおり、当時ローマのために同民族から金をだまし取る「取税人(プブリカニ)」もいましたし(レビ(マタイ))、今で言えばテロリストにも近い熱心党員(熱心党員シモン)さえいました。しかし、その無学な漁師が聖書を記すほど理解に富む者となり(ペテロ、ヨハネ)、取税人がむしろ人に仕える者になり、熱心党員が武器を捨てたのです。それは、彼らが自分たちこそ「知っている」、また自分のやり方、生き方こそ正しいという思いを捨て、「神によって教え」られたからです。

 私自身、かつては自分は勉強が出来る方だと思い、「知っている」方だと思い込んでいました。しかし、自分より知らないと思っていた人が自分より正直で、思いやりがあることを知りませんでした。「知っている」と思っていた自分がどれ程無知で、親切だと思っていた自分がどれほど自己中心的か、心が醜いかを知りませんでした。けれども、そのような自分の罪を認め、救い主に心を開いたときに、今まで知らなかった聖書の知識だけでなく、今まで気づかなかった身近な人の心や姿に気づかせて頂けるようになりました。親の心、障がいを持っている方の見ている世界、目につかないところで多くの人の生活を支えてくださっている人たちの姿、自然の素晴らしさ等数えきれません。何より、どれほど神が私たちを愛し、必要を満たし、何が本当に有益で、真実かを教えてくださっています。それでも、まだまだほんのわずかしか知らないこと、「知っている」と思っていることも、まだまだ不充分であることを告白せざるを得ません。それでも、「知っている」と思っていた時が、どれ程無知であったかを知るには充分なほど、様々な事実を教えられています。そして、そのわずかな知識でも、神が生かしてくださっていることを経験させていただいています。自分の無知を知れば知るほど、教えられることが多く、心が豊かにされるのを経験させていただいています。

3、カルトや盲信的な信仰と相反するイエスの教え

 ですから、是非「知っている」という思いの危険性、そして、「神によって教えられる」ことの大切さを知って頂きたいのです。とは言っても、「神によって教えられる」と言われると、危険だと感じる人も多いでしょう。実際、この世の宗教を無批判に信じることは、大変危険です。しかし、そのような危険な宗教の特徴は、神ではなく人や組織に気に入られることを求めさせ、嫌われることを恐れさせ、そのような心理で人を縛るところにあります。そこが危険なのです。神を信じるという思いが個人や組織の利益のために利用され、かえって盲目にされてしまうから危険なのです。しかし、このヨハネ6章をお読みになるとわかるように、イエスは人に認められようとする思い、組織に認められようとする思いから、敢えて人を切り離し、神ご自身と向き合うように導かれます。まるでご自分を信じようとする人に対し、かえって反感を起こさせ、信じさせないようにしているかのように見えるぐらいです。多くのユダヤ人がイエスを信じられなかったのは、ユダヤ人組織を誇る民族主義、モーセ等のカリスマ的人物への執着があったからです(30~32節)。この6章の教えは、組織や人に認められたい思いがあると、かえって信じられない教えです。そのような思いを持っている人は、絶対に信じることができないようにイエスが語られたのが、今日の箇所です。このようなイエスに目を向けるときに、人や組織ではなく、本当の神に心を向けることができるのです。そこにこそ、本当の知識、本当の救いがあるのです。