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みことばの糧53

平和の道 ―神を信頼し 自分の罪を悲しみ 神の御前にへりくだる―

「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」と。それで、こう言われています。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与える。」 ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。ヤコブの手紙4:5b-7

 私たちがこの世で生きて行くとき、必ずと言って良いほど争いがあります。それは時にあからさまですが、笑顔やきれいな言葉であるいは善意を装いながら行われます。しかし、あからさまであれ、偽装された争いであれ、その原因は相手に求めるべきではなく、自分に求めるべきだと聖書は教えます。その原因の一つは、神に「求めないから」であり(2節)、もう一つは、神に求めたとしても「自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求める」からです(3節)(みことばの糧51)。そして、このように神に求めなかったり、悪い動機で求めるという心のあり方について、ヤコブは厳しい言葉でこう責めます。「貞操のない者たち」と(4節)。この言葉は、非常に厳しいことばであり、受け入れ難い言葉です。けれども、多くの問題は、実際に自分自身の不誠実さ、移り気などが原因であることが少なくありません。誰かに対する誠実さを堅く保つよりも、自分によくしてくれる人や場所などを求めてふらふらしてしまう。この問題が、とくに家族、夫婦関係にあらわれます。とくに人間と神との関係の不誠実さが問題です。神に信頼すると言っている者自身が、宗教を隠れ蓑にしてしまう傾向があります。しかし、本当に問われなければならないのは、神への誠実さなのか、それとも自分の欲求への誠実さなのか、です。

1、神への信頼の欠如

 人が人と争ってしまう根本原因は、神に「求めないから」だと聖書は言います(2節)。その背後には、神に対する信頼の欠如があります。ですからヤコブは、手紙の読者にこう言います。「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。神は、さらに豊かな恵みを与えてくださる」(5~6節)。神は、イエス・キリストを信じる者に、三位一体の神ご自身である御霊(聖霊)を住まわせてくださいました。そうであるならば、その聖霊が住んでいる人自身を、どれ程愛し、慕っておられることでしょうか。その人を救うために、最愛の神子をさえ十字架につけたのです。全能の神が、それ程愛し、慕っていてくださるならば、自分で言い争ったり、仕返ししたり、悪口を言ったり、情報を操作したりする必要はありません。求める人自身に否がないならば、必ず神が最善の時に、最善の方法で解決してくださいます。

 それなのに争いや、人気取り等、人間的な作戦で問題解決を図ろうとするのは、神に信頼せず、神以外のものに頼っている。それは、神に対する不貞(現代的に言えば不倫と言ってもよいかもしれません)だと聖書は言います。この聖書の教えから見れば、宗教戦争等も神の名を振りかざしてはいますが、実際には神への信頼の欠如、神に対する不貞と言ってよいのではないでしょうか。

 とは言っても、明らかに相手のやり方が理不尽なときがあります。それを耐え忍ぶのは、並大抵のことではありません。しかし、パウロはそのような状況でも、争うことなく、むしろ喜びました(ピリピ1:17~18)。自分が苦しめられていることや、自分に同調してくれるかよりも、彼らのしていることの良い面に目を留めたのです。そこには悪いものも含まれていましたが、キリストはその問題さえ益と変えてくださることを信じました(同19節)。これが信仰であり、キリストへの貞操です。同じように、私たちも自分に味方してくれるかどうかで見るべきではありません。私と神、その人と神の関係で見る必要があります。一人ひとり、神に対する私の責任を果たすべきです。それ以上は、神にゆだねなければなりません。それが、神に対する信頼であり、貞操です。神は、神を信じるあなたをねたむほどに愛し、慕っておられるのです。そこに堅く立つならば、争いに陥ることはありません。

2、へりくだって悪魔に対抗する

 では、負けっぱなしでよいのか。聖書は、「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」と教えます(7節)。私たちが本当に戦うべき相手は人間ではなく、「悪魔」です。悪魔祓いをせよという意味ではありません。ここで悪魔と訳されている言葉「ディアボロス」は、「誹謗中傷する者、悪口を言う者」という意味があります。ですから、たとえ相手に問題があったとしても、誹謗中傷したり、陰口をたたいたりした時点で、それはもう「悪魔」と同じ行為に陥っているとヤコブは言っているのです。私たちは、この「誹謗中傷する者、悪口を言う者」にならないよう、そのような自分の思いにこそ「対抗」しなければならないのです(参考ユダ9節)。人を責める前に、自分が「神に従う」。そうすれば、「悪魔はあなたがたから逃げ去ります」「神に従い、悪魔に対抗」するなら、「悪魔」を恐れる必要ありません。ですから、私たちは相手を責めるよりもまず、自分自身の心、言動を吟味すべきです。ネットでも、よくブーメランという言葉が使われます。相手を責めながら、自分自身が同じことをしている。相手を責めた言葉が、そのまま自分に返ってくるということです。そうであれば、神があなたを裁かれます。ですから、人を責める前に、まず神を恐れなければなりません。自分自身の弱さ、足らなさ、間違いに目を向けるならば、決して人に対して誇れないはずです。修行などしなくても、神の御前にへりくだらざるを得ません。神は、そのように「へりくだった者には恵みを与え」(6節)、「高く上げてくださいます」(10節)。

 神がキリストをよみがえらせ、「高く上げ」られたように、神が「恵みを与え」、神が「高く上げて」くださる者こそ、本当の勝利者です。私たちは、人間に対抗するのではなく、「悪魔に対抗し」「神に従い」「へりくだる」べきなのです。そこにこそ、勝利と平和の道があります。ここにこそ、本当の知恵、神への信頼があるのです。

3、喜びを悲しみに変える

 そして、意外なことですが、ヤコブはこの手紙の読者に対し、「あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい」(9節)と勧めます。この言葉は、多くの人にとって意外であり、受け入れがたい言葉です。世の中の人は、「笑う門には福来る」と言うように、笑顔でいられることこそ幸せだと思いがちです。また、この言葉はクリスチャンにとっても、いえ、クリスチャンだからこそ、受け入れがたい人も多いでしょう。なぜなら、多くのクリスチャンは、「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5:16、ピリ4:4)という御言葉を信じており、大切にしているからです。しかし、聖書には、悲しみなさいという言葉も、同じように重要なこととして教えられていることを見落としてはなりません(Ⅰコリント5:2、Ⅱコリント7:10、箴言7:3等)。

 人に受け入れられたり、自分に味方してくれる人が多かったり、自分に対立している人が倒れるのを見て喜んでいるならば、そのような「喜び」は、「悲しみ」に変えなければなりません。神は、そのような喜びを決して望んではおられないからです。聖書が喜ぶように命じているのは、神に従っていても苦しみを受けているとき、結果が見えないとき等です。そこには喜ぶべき理由があるからです。ですから、争いで解決する道を捨て、敵を愛し、たとえ自分の立場が悪くされても、善が行われることを喜び、神ご自身の解決に信頼し、望みを置いている。そのような人こそ、喜びなさいと聖書は語っているのです。神ご自身が、その人を「高く上げ」「恵みを与え」、喜びで満たしてくださるからです。「悲しむものは幸いです」(マタイ5:4)。自分の弱さ、罪深さ、この世の理不尽さ、不正、そのようなことに心を留め、悲しんでいる人こそ、神が本当の喜びを与えてくださいます。

 喜びそのものが目的となるとき、その邪魔をする人を敵と勘違いし、争い、ストレスをためます。そこには、何の解決もありません。むしろ、問題を大きくし、恨みの連鎖を生んでしまうことが少なくありません。そうではなく、自分の罪に悲しみ、悔い改め、神に信頼し、神の解決に期待し、身勝手な争い、工作を捨てる。そこにこそ、本当の平和の道、幸い、喜びがあるのです。神は、ご自分に信頼し、御霊を住まわせているあなたを、ねたむほどに愛し、慕っておられるのです。御子をあなたの身代わりに十字架につけるほど愛してくださったのです。

 ここにこそ、神に対する信頼、信仰があります。このような見方こそ、聖書が教える神の知恵なのです。