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みことばの糧51

平和をつくる道 ~争いの原因はどこに~

あなたがたの間の戦いや争いは、どこから出て来るのでしょうか。ここから、すなわち、あなたがたのからだの中で戦う欲望から出て来るのではありませんか。ヤコブ4:1

 私たちは、日々様々な人と関係し合いながら生きています。そうしますと、そこにはしばしば「戦いや争い」が起きてきます。その「戦いや争い」は、何が原因で、「どこから出てくる」のでしょうか。私たちはその原因をしばしば対立する相手に求めるかもしれません。確かに、相手の方に大きな問題がある場合もあるでしょう。自分が悪い場合もあるでしょう。しかし、聖書は、どちらの場合であっても、「戦いや争い」は、相手から「出て来る」と考えるべきではない。「ここから」つまり、自分の中から出てくる。そのことに気づかなければならない。そして自分の中から出てくるのであれば、それを「戦いや争い」に発展させるか、「平和をつくる」(3:18)かどうかは、自分自身にも責任がある。そこに向き合わなければならない。大変厳しい言い方に見えますが、聖書はそう教えています。そして、そこにこそ「平和をつくる」道がある。そこにこそ神の知恵があるのです(1:5)。

1、「戦いや争い」が起きる原因と背景

 ヤコブは、「戦いや争い」が起きる原因について、ヤコブは自分自身の内側から出てくると指摘します。自分の「からだの中で戦う欲望から出て来る」と言います(1節)。そして「欲しても自分のものにならないと……熱望しても手に入れることができないと、争ったり戦ったりします」(2節)と続けます。これは、最も単純な争いについてよく当てはまります。しかし、「熱望」するものの中には、一見正しい目的のための意見が通ること、自分の願っている行動が実行できることも含みます。当時、ヤコブがこの手紙を書いた相手の人たちが抱えていた争いは、むしろ、そのように良かれと思って、あるいは神のためと思ってしていた行動や主義・主張が争いをもたらしていたと考えられます。実は、このような「戦いや争い」の方が、やっかいです。なぜなら、「戦いや争い」を引き起こす両者が、自分たちこそ正しいと信じているからです。そして、自分の主張が通ることが、全体のためになり、また平和のためにもなる。そう考えている場合、この問題は非常に難しくなります。しかし、世の中で起こるほとんどの「戦いや争い」は、このような側面を持っているのではないでしょうか。

2、神に求める

 では、そのような「戦いや争い」を引き起こさないため、何ができるのでしょうか。この時、多くの人は相手の間違いを証明し、自分の主張の正しさを証明することだと考えやすいものです。しかし、聖書はこう言います。「自分のものにならないのは、あなたがたが求めないからです」(2節)。いや、「欲しても」「熱望しても」と言っているのですから、「求め」ているではないかと思ってしまいます。しかし、聖書が言っている「求めない」というのは、神に「求めない」ことを指しています。争う前に、まずあなたは神に祈り求めましたか?していないのではありませんか?そう問いかけているのです。

 なぜ、神に祈り求めることが「戦いや争い」を解決するのでしょうか。それは、聖書の神が、正しい願いならば、必ず答えてくださる神だからです(マルコ11:24)。神を信じておられない方は、「神がおられるならば、どうしてこんな問題が起きるのか。こんな理不尽なことを放置するのか」と言われるでしょう。しかし、そう言う前に、神に求められたでしょうか。神に「どうして」と言えるのは、神に信頼し、求めた人が言えることです。求めもしないで、「どうして」と言うことは出来ません。

 しかし、祈ったからすぐに問題が解決しないことも、少なくありません。それは、祈る人の信仰が足りないからではありません。聖書の中で信仰を賞賛されているダビデも長い間、反逆者の汚名を着せられ、逃亡者として生きなければなりませんでした(Ⅰサムエル20章以降)。しかし、神はすぐにその状況から救い出すことはされませんでした。それでもダビデは、サウルを悪く言ったり、サウルの命を狙ったりすることはありませんでした。むしろ、どれ程いのちを狙われても、サウルは神がお立てになった王であると、最後まで礼を尽くし続けたのです(Ⅰサムエル24:6等)。そのようにダビデは、神に解決を求め続け、争いによって自分で解決しようとはしませんでした。だからこそ、やがてサウル王が神の裁きによって死んだとき、サウルの部下たちも喜んでダビデを王とし、王国がまとまりました。ダビデは、神に求め、神の時、神の方法に委ねたのです。だからこそ、不要な「争いや戦い」を引き起こさなかったのです。(対照的に、ダビデの妹ツェルヤの子たちは、常に戦いに勝利をすることを求め、不要な争いを引き起こし、ダビデを悩ませ、また早死にすることになってしまいました)。

 ですから、神の求めるとうのは、単純なことではありません。理不尽な現状がすぐには変わらない、むしろ長く続くことも少なくないからです。しかしダビデは、たとえ現状がすぐに変わらなくても、自分が悪者扱いされ、親しい者からもいのちを狙われ続けたとしても、「争いや戦い」を選ばず、神にゆだね続けました。ダビデ以外にも、聖書の信仰の先輩者たちは、そのように生き、勝利を得た人物が大勢います。そのように神に「求め」ることこそ、真の「平和をつくる」道なのです。

 そのような生ぬるい方法が通用するかと言う人もいるかもしれません。しかし、ダビデにしても、モーセにしても、そして、イエス・キリストご自身も、この道によって勝利したのです。非常に厳しい、この世の現実の中で。イエス・キリストもまた、不正な裁判で十字架刑に架けられてもなお不平を言わず、むしろご自分をあざける者の赦しのために祈りました。死を目前にしても、ご自分のいのち、ご自分の霊を神におゆだねになったのです(ルカ23:46)。このイエス・キリストによって、クリスチャンに対して暴力的に振る舞いながら、神のために正しいことをしていると思い込んでいたサウロ(後のパウロ)も、争いを捨て、神に悔い改めたのです。

 このように、私たちは何か欲しいもの、必要なものがあるとき、あるいは正しいと思われる主張が通らないとき、まず神に祈り「求め」るべきなのです。黙って、何もしなくても良いと言うことではありません。争いという方法を採らず、言うべきことを愛と誠実さをもって伝えたならば、結果は神におゆだねする。そこにこそ、「平和をつくる」道があるのです。

3、求める自分の動機を吟味する

 そして、神に祈り「求め」るとき、もう一つすべきことがあります。それは、「求め」る自分の動機を吟味することです。というのは、「求め」る内容がたとえ正しかったとしても(100%正しい事はほとんどあり得ませんが)、動機が間違っていれば、神は願いを聞き入れないからです。「求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で求めるからです」(3節)と聖書は言います。もとから自己中心的な願いであれば言うまでもありません。しかし、正しい行為を求めるときでも、その背後に名誉欲、承認欲求、支配欲が働いてしまっていることが少なくありません。どれほど純粋そうな人であっても、この問題から完全に自由になることは、非常に困難です。だからこそ、私たちは自分の動機を常に問わなければなりません。聖書に照らし、客観的に自分の動機を見つめ、祈る時を持つ。そのようにして、動機の間違いが示され、動機がきよめられるならば、その「求め」は聞かれます。少なくとも、「争いや戦い」以外の道を選択できるようになります。

 このように神に祈り「求め」、自分の動機を吟味しないと、「争いや戦い」以外の道が見えなくなってしまいます。「争いや戦い」と言っても、積極的な「争いや戦い」だけでなく、情報戦もあります。相手の評価を引き落とし、自分の仲間を増やそうとするのも、やはり「争いや戦い」です。Ⅰコリント1:11、ピりぴ1:15を見ますと、当時問題になっていた「争いや戦い」は、むしろこのような派閥争いや情報戦だったことがうかがえます。そして、現代社会でしばしば私たちを悩ますのも、この「争いや戦い」ではないでしょうか。この「争いや戦い」を考える上でも、まず相手の問題を指摘するのではなく、神に祈り求め、自分の動機を吟味することが大切なのです。

 実際、相手が悪い、問題は相手の方にあると思っているとき、私たちは無意識に解決のための選択肢を絞ってしまいます。私たちは、多くの場合選択肢を持っているようで、最初から選択肢を制限してしまい、「争いや戦い」しか方法がないと結論づけ、自分を納得させようという心理が働いてしまいがちです。そのために「争いや戦い」は、なくなりません。しかし、神に祈り「求め」るならば、今まで自分が思いつかなかった、あるいは無意識に拒否していた、第三、第四の選択肢も見えてくるものです。

4、結論

 ですから、私たちは自分で解決しようとする前に、神に祈り「求め」、自分の動機を吟味する必要があります。とくに自分の求めているものが、正しいように見え、相手が間違っているように見える時には、なおそうすべきです。相手に問題があると思う時こそ、このヤコブ4:1の御言葉に眼を向けるべきです。良かれと思ってする時ほど、「争いや戦い」から引き返せないからです。

 神に祈り「求め」、自分の動機を吟味する。そして、動機が正しく、求めているものが良いものであるならば、神は必ず最善の時に、最善の方法で聞いてくださる。ここにこそ神の知恵があります。このように信じることこそ、聖書の教える信仰なのです。この知恵、この信仰を追い求めて、そこに生きていく。そこにこそ、平和をつくり、実を結ばせる大きな力があります。