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みことばの糧30

クリスマスにむけて ―マリアの賛歌 低い者を高く上げ、高ぶるものを低くする救いの現れ

マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。

ルカの福音書1:46–48

 

 この言葉は、処女マリアが御使いから、神の救い主をみごもると告げられたときに、神を誉め讃えた歌、「マリアの賛歌」と呼ばれる言葉の一部です。この時、まだマリアは救い主を見ておらず、妊娠もしていません。田舎の大工の許嫁となったマリアには、明日も厳しい現実が待っている。そのただ中で、喜びに満たされて歌った歌が、この賛歌です。ここにクリスマスの喜びの大きな一面があります。マリアがこのように喜んだのは、救い主が「低い者を高く引き上げ」(52節)、「心の高ぶる者を追い散らされ」る方であることを知っていたからです(51節)。そして、自分のようなものに救い主を身ごもらせてくださること自体が、このような神のお取り扱いだということを、身をもって経験したからです。

 救い主の到来は、この世の理不尽な不公平、格差、ゆがみを神がただしてくださる約束の結晶なのです。

1、マリアが救い主の誕生を喜べた理由 ~過去になされた神のみわざと預言に目を留めていた

 救い主が来られるならば、この世のあらゆる無秩序、不公平、不正の問題をただしてくださる。このことは、旧約聖書で預言されていました(イザヤ40:4、詩篇113:7)。しかし、マリアが経験したのは、イスラエルのこの世の王が入れ替わることでも、ローマの圧政からの解放者が現れたことでも、革命家が現れたことでもありませんでした。ただ、まだ姿も見えない赤子が与えられる約束を聞いただけです。しかし、そこにはすでに大きな神のみわざが始まっていました。

 このことを実感することが出来た一つの理由は、マリアがⅠサムエル記2:1~10に記されたハンナの賛歌をしっていたからでしょう。ハンナは、不妊の女性でした。一夫多妻制が一般的だった当時、子を産めないハンナは、もう一人の妻ペニンナが多産であったことで、大変つらい思いをしていました。とくに、家をつぐ長男の存在が非常に重視された当時、夫がどれほどハンナを愛していても、ハンナの立場は弱かったのです。しかも、ペニンナは、ハンナが子を産めないことを良いことにますます、ハンナが苦しむように嫌がらせをしました。当時は、王政もなく、このような不公平を正してくれるものな何もありませんでした。しかし、神はそのようなハンナの祈りを聞き、うめきを受け止め、ハンナに子を与えました。そして、そのハンナの子が祭司となって、無秩序だったイスラエルに秩序を取り戻し、王政への土台を据えていくことになります。ハンナが懐妊したこと自体は、非常に地味な出来事でした。けれども、そのハンナの懐妊は、心高ぶるものを低くし、低い者を高く引き上げる神の救いの現れだったのです。そのハンナが歌った歌は、マリアの賛歌と酷似しており、その歌の中には、救い主の預言と言われる神が立てられる王への期待がありました。

 だからこそ、マリアは、自分がみごもると告げられただけで、ハンナと同じように神が取り扱ってくださっていること、そして、ハンナが預言したすように、すべての不公平をただしてくださる王としての救い主が来られたことを確信し喜ぶことが出来たのです。

2、マリアが救い主の誕生を喜べた理由 ~人に隠れた内なるものに目を留めてくださる神に心を向けた

 マリアが、喜べた理由はまだあります。実は、マリアも婚約者のヨセフもダビデ王家の血筋を引いていました。しかし、様々な歴史を経て、今は王家であることが誰もわからないほど、非常に貧しい、田舎暮らしを余儀なくされていました。それでもなお、マリアとヨセフは、神の御前に正しく歩もうと地道に、誠実に生きてきた人でした。けれども、この世はそのような彼らを評価せず、価値も認めません。聖書を信じているはずのイスラエルであっても、辺境、ガリラヤ地方ナザレに住む大工には、何の価値も認めなかったのです。しかし、神は彼らの心を見ておられました。そして、神がハンナを顧みられたように、マリアとヨセフを顧みてくださったのです。

 マリアは、まだ自分の胎に子が宿る実感も持っていません。御使いによって語られたことが事実であると信じる手がかりも、聖書しかありません。しかし、神はこの世と同じ見方ではなく、人の隠れた誠実さに目を留めていてくださる。だからこそ、世の中が決して目を留めることのな自分に声をかけてくださった。そのことを知っただけで、御使いのことばが必ず成就することを信じ、何も起きていない今、喜べたのです。もちろん、親戚のエリサベツが高齢でありながら、御使いの告げた通り子を宿し、すでに妊娠六ヶ月になっていたことも、マリアが信じる助けになったに違いありません(36節)。それでもなお、マリアの喜びは、奇跡的な懐妊ではなく、「低い者を高く引き上げられ」た神の誠実さ、神のみわざに向けられていました(52節)。奇跡的な出来事そのものは、驚きしかもたらしませんし、しばしば人を奢り高ぶらせます。けれども、マリアは御使いのことばを聞いて、ますますへりくだり、喜ぶことができました(48節)。ここにクリスマスの喜びがあるのです。

3、マリアが救い主の誕生を喜べた理由 ~おごらずへりくだる心を持った

 そして、マリアが救い主の誕生を喜ぶことが出来た重要な要因の一つは、へりくだりです。マリアは、御使いの告げる神のことばを来たとき「この卑しいはしために目を留めてくださったから」「私の霊は私の救い主である神をたたえます」と言っています(48節)。マリアは、王家の血筋を引いていました。婚約者のヨセフもまた、王家の血筋でした。それでも、「私は、本来王家の血を引く、由緒ある血筋なのに」と自分を誇ったりすることはありません。また、当時の周囲の人に比べても、はるかに誠実に生きてきた人でありましたが、だから自分が選ばれる資格があったとも思っていません。もし、そうであったら実際に自分が栄誉を受けるまで喜べなかったことでしょう。とくに、生まれたイエスがこの世で何の地位も得ないことに、不満を覚えたに違いありません。

 けれども、マリアは違いました。王家の血を引いていても、誠実に生きてきたとしても、だから神の報いを受けて当然だとは考えませんでした。むしろ、自分は「卑しいはしため(=価値のない神の召使い)だと理解していました(48節, 38節)。そして、自分は神の「はしため」なのだから主人である「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と願うことが出来ました(38節)。だからこそ、マリアは誰よりも大きな恵みと栄誉を神から頂くことができたのです。そして、「今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」(48節)、自分ほど幸いな者はいないと言えたのです。

現代に生きる私たちにとってもクリスマスの喜びはここに

 このようにクリスマスは、この世の不正がただされることを願っている人にとって、喜びの知らせなのです。そして、誠実に生き、なおヘリくだる者に、神が比べものにならない大きな恵みと栄誉をくださる日なのです。

 ですから、この世の不公平をただし、低くされている者を高く引き上げる神に期待していただきたいのです。その神の御前にへりくだっていただきたいのです。神はそのような人に、マリアのように救いを見させてくださるからです。神がその人を高く引き上げ、比類なき喜びを経験させてくださるからです。ここにこそ、クリスマスの喜びがあります。ここにこそ、この世にはない、神ご自身からのプレゼントがあるのです。是非、この神からのプレゼントに期待し、あるいは感謝し、クリスマスを迎えてください。そうすれば、その喜びはクリスマスだけで終わらない、永続する喜びとなるからです。