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みことばの糧2

神に知られていることの大切さ

ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは答えられた。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」 ナタナエルは答えた。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

ヨハネ1:48~50

 自分の知識や経験で、優れたものと劣ったもの、良いものと悪いもの、安全なものと危険なものを見わけることは重要なことではあります。しかし、自分の知識や経験だけで判断すると、時に大きな間違いを犯す危険があります。人の噂を信じて便乗すると加害行動に加担してしまうことがあります。なぜならば、私たちはすべてを知っているわけではなく、むしろ知らないことの方が多いからです。

 ナタナエルという人物もイエスを救い主と紹介されたとき、頭から否定しました。なぜならば、ナザレから優れた人物が出るわけがないという経験と知識があったからです。また、聖書も救い主は、ナザレではなくベツレヘムから出ると告げていました(ミカ書5:2)。ナタナエルの態度は誠実でしたし、彼の知識は部分的に正しかったのです。けれども、ナタナエルは他のナザレ人は知っていても、イエス御自身の人格や力を知りませんでした。また、ナザレで生活していることは知っていても、ベツレヘムで生まれたことを知らなかったのです。

 けれども、イエスはナタナエルの内面を知っておられました。ナタナエルが偽善的でなく誠実な人物であること(47節)、そしてナタナエルがイエスのもとに行こうとする前から、ナタナエルがどこにいたかまで知っておられました(48節)。この事実を告げられたとき、ナタナエルは、自分の知識のわずかさを知り、イエスが救い主、神の御子であることを知ったのです。

 人の知識や経験は、どれほど増し加えても神の知識とくらべればほんのわずかです。その知識や経験だけで判断すると、時に正しいものまで悪と判断してしまいます。しかし、神が何を知っておられ、どこを見ておられるか。そこに目を留める時に、私たちは本当に良いものを見わけ、神の偉大な御業を見るようになるのです(51節)。神があなたを見ておられ、あなたの隠れた内側まで知っておられます。自分がどれだけ知っているかより、神に知られていることに目を留める事が重要なのです。