今でこそクリスマスは、賑やかな飾りで、派手に祝われることが多いのですが、最初のクリスマス、つまり救い主がお生まれになったときは、貧しい羊飼いと異国の賢者だけが祝いました。賛美歌「きよしこのよる」が作られたのもチロルの山奥の小さな教会だったと言います。私たちの教会も派手な楽しみはありませんが、真心から本当のクリスマスをともに祝いたいと願っております。是非、教会で本当のクリスマスを祝いませんか。
ほんとうのクリスマスを教会で…
「…曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、 暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、
私たちの足を平和の道に導く。」
ー 聖書 ー
約束の民ではなく外国人に祝われたクリスマス
民族主義や自分ファーストではない人たちに示された本当のクリスマスの喜び
イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。
これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。」- 聖書 -
聖書が教える最初のクリスマス、救い主の降誕の記事は、驚くことばかりです。その驚きの一つは、約束のメシヤが来られたにもかかわらず、当のユダヤ人たちは動揺し、外国人である東方の博士たちが、わざわざ多大な犠牲をはらって旅をし、贈り物をささげ、祝ったことです。彼らの国には何の利益も栄誉もないのに、なぜ彼らはただの赤子を礼拝しにきたのでしょうか。聖書は、その動機を詳細に示してはくれません。ただ、はっきりしているのは、彼らは自分の国や自分の栄誉を求めてはいなかったということです。もし、そのような動機があったのならば、自分たちの国ではなくユダヤ人の王があがめられることなど、むしろ腹が立ったはずだからです。脅威にさえ映ったでしょう。ところが救い主の誕生の知らせを脅威に感じたのは、イスラエルを治めていたヘロデ王だったのです。また、ヘロデ王の権威のもとにとりあえずの安定を保っていたエルサレムの住民も同様でした。
その結果、救い主の到来を喜べたのは、この世の権力を握っていたヘロデ王や、約束の民というプライドに甘んじていたユダヤ人ではなく、遠く離れた国にいた外国人だったのです。神は、そのような外国人の彼らにクリスマスの喜びを与えてくださり、救い主の恵みを示してくださったのです。
(神の約束は、確かなもので神は必ず約束を守られます。けれども、その約束を自分の特権として振りかざす者を神は忌み嫌われるのです。神の約束は、へりくだった人が感謝して受け取るためでもあります。)
このように自分の立場を守りたい、自分のプライドのゆえに人をさげすむ。そのような思いが、クリスマスの喜びを遠ざけます。むしろ、この世の立場のむなしさを知り、派閥争い、民族主義にとらわれず、へりくだった人に神は、本当のクリスマスの喜びをくださるのです。
この世の一時的なむなしい楽しみならば、富や食事、音楽、装飾品、パーティが与えてくれるかも知れません。けれども神の御前にへりくだった者に与えられる本当の希望、喜びである救い主をともに祝いませんか。
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