みことばの糧70
裁きに全責任を負う神の赦しと願い
イエスは身を起こして、彼女に言われた。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さなかったのですか。」彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」ヨハネの福音書8:10~11
もし、あなたが人に判決を下す立場に立ったとき、あなたはその判決に全責任を負い、その処刑を実行することができるでしょうか。
今の時代は、ネットで様々な意見を気軽に発信することができます。とくに匿名の場合、気軽にできるかもしれません。気軽に発信できることで、自由で積極義論が出来るのは、とくに人目を気にする日本人にとって良い面もあるかもしれません。しかし、同時にそこには無責任さも伴います。とくに批判的な内容を書く場合、その無責任さが大変大きな問題となります。人は、他の人の言動や意見を批判するとき、あまりにも無責任で、自分中心的になりやすい傾向があります。けれども、神の裁きは違います。聖書を読むと、とくに旧約聖書には、神の律法の道徳規準の高さ、また裁きの厳しさが書かれています。しばしばクリスチャンでも、その厳しさに恐れます。ある人は、そこまで厳しい神は残酷だと非難さえします。けれども、神が刑罰を下すとき、それはご自分の御手でお造りになり、ご自分が期待し、愛し、育んだ一人一人に刑罰を下すということでもあります。そこには計り知れない責任と痛みが伴うのではないでしょうか。そして、神の赦しに対しても、人は甘えたり、あるいはどんな罪でも赦されるのは、不公平であり、人を放縦にすると批判する人もいます。けれども、そのように罪を憎み、重い責任を負って裁きを下す神がお赦しになる。そこにも、神の決断の重さと、人への愛の深さ、期待の大きさが表れている。この箇所は、人を裁くことの責任の重さと、赦しに込められた神の愛と期待を教えられる箇所です。
1、人間の裁きが抱える問題
この箇所は、律法学者とパリサイ人、つまり当時の宗教的指導者たちが、「姦淫の現場で捕らえ」てきた女性を連れてきて、イエスに、このような女をどうすべきかと問いかけた箇所です(3~4節)。彼らはイエスにこう問いかけました。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか」(4~5節)。
ここで彼らが「姦淫」と呼んでいるのは、現代日本では不倫と呼ばれる行為、つまり結婚した男女が、他の夫や妻以外の異性と性的関係を持つことでした。これは、大変重い罪であり、死罪が定められていました(レビ記20:10等)。また、婚約している女性に対して性的関係を持つことも死罪であり、とくにこの場合石打ちに定められていました。現代日本人から見れば、重すぎる刑罰に見えるかもしれません。しかし、聖書はそれだけ結婚を尊んでいたのです。しかも、約3,500年前から。
しかし、律法学者やパリサイ人たちがそれ程結婚を尊び、そのために心を痛めながら彼女を連れてきたかというと、そうではありません。聖書は、「彼らはイエスを告発する理由を得ようと、イエスを試みてこう言ったのであった」と彼らの動機を明かしています(6節)。私たちも人の問題が気になるとき、二つの動機があるのではないでしょうか。一つは、その問題自体に心を痛めている場合。もう一つは、人の間違いを指摘することによって、自分の正しさを証明したい、認められたいという動機です。この二つの動機は、それほど単純にわけられるものではなく、しばしば複雑に混ざり合っているものです。とくに彼らの動機は、後者に偏っていました。それは、聖書が「イエスを告発する理由を得るため」と記しているからわかるだけではなく、彼らの行動自体にもよく表れていました。彼らが、本当に姦淫の罪に心を痛め、神に従おうとして尋ねたのならば、女性だけでなく相手の男性も連れてくるべきだったからです。姦淫は、一人だけではできません。必ず相手がいます。そして、レビ記20:10にも「その姦淫した男も女も必ず殺されなければならない」と記されています。ところが、彼らは、男性については完全に放置していました。彼らだけでなく、当時のイスラエル社会全体が、女性の姦淫は問題視しても、男性の姦淫については寛容で、罪に問わないことが多かったようなのです。自分たちに都合の良い問題には目もくれず、女性にだけ焦点を当て、しかもイエスを責め、自分たちの正しさを証明するために訴える。そこには、罪に対する痛み悲しみなどなく、むしろ自分たちの都合のために彼女を利用しようとする、非常に醜い動機が隠れていました。この点で、彼らもまた神の御前に罪人だったのです。
私たちも世の中や、身近に起きる様々な事件、トラブルについて問題視すること自体はとても大切です。しかし、その問題を指摘するときの動機は、どうなのでしょうか。私たちも、この律法学者やパリサイ人たちのように、自分の問題から目を反らし、自分の正しさを証明するために問題を利用する動機がどこかに潜んでいないでしょうか。この問題を抱えたまま、人の問題を指摘しても、新たな問題を生み出すだけです。まして、問題の当事者に問題を解決したい、改めたいという意欲を起こさせることはできません。それでは、自己満足にすぎないのです。
2、裁きに責任を負えない人間と責任を負われる神
このような曲がった動機からイエスに問いかけていた彼らに対して、イエスは最初取り合わないでいました(6~7節)。しかり、彼らがあまりにもしつこく「問い続けるので」、イエスはこう答えました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」(7節)。イエスがこのように言うと、彼らは「年長者たちから始まり、一人、また一人と去って行き」(9節)、最後には、連れてきた女性とイエスを残して、全員が去って行ってしまいました。彼らはの中で、自分は罪がないと言い切り、彼女に最初に石を投げられる人は誰もいなかったのです。
イエスがこのように彼らに言われた理由の一つは、罪人を処刑する場合は、証人が最初に手を下すよう聖書が定めていたからだと思われます(申命記17:7)。そうすることで、証人は自分の証言に責任を持つことが求められたのです。しかし、彼らは石を投げず去って行きました。聖書が男女をともに処刑すべきだと教えているのに、女性だけ連れてきたこと自体違法であり、その女性に石を投げれば彼ら自身が罪を犯すことになる。それはできなかったのでしょう。
また、当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、勝手に人を死刑にすることは許されませんでした。イエスには、聖書は「石打ちにするよう私たちに命じて」いるけれども、どうすべきかと尋ねているのに、自分たちはローマに逆らってまでその通りにするつもりはまったくなかったのです。また、彼らは「年長者から」去って行きました。若い人たちは、「年長者」が罪に定めようとしているのに、自分は違うとは言えなかったでしょうし、年長者が去って行くのに、自分は罪がないと石を投げることもできなかった。どちらにしても、彼らは波風立ててまで、聖書に従うつもりなどなかったのです。彼らは、イエスが彼女を赦すと言われるのを予測して、イエスが赦せば、イエスは聖書に逆らっていると批判するつもりだったのでしょう。しかし、彼ら自身イエスの赦しを批判しながら、自分たちはリスクを冒してまで、裁きを下す覚悟はなかったのです。彼らもまた神に従うように見せながら、神の言葉を自分の欲のために利用する罪人だったのです。
(もちろん、年長者ほど人生経験が長く、心の中の汚れにも敏感で、心の中さえもお調べになる神に対して罪がないとは言えない、そのように考えたからかも知れません。しかし、この世の法律で裁かれない心の罪、動機にまで罪の意識が及んでいたのならば、むしろイエスの教えを理解し、神の救いを求めたはずです。確かに年長者ほど、自分の無力さや、自分の犯してきた過ちに対して意識しやすくなっていきます。彼らもそうだったと思いたいものです。しかし、聖書全体に表れている彼らの態度を見ていると、その可能性はかなり小さいように思います。しかし、私たちは自分の罪、弱さ、失敗などと素直に向き合い、人を裁く資格はないと自覚することは、大変重要です。そのことを自覚した上で語る助言や戒めは、人の心に届きやすいものです。)
しかし、神は違います。神は人のすべてをご覧になっておられます。そして、罪のまったくない方です。神こそ律法の制定者であり、裁く権利を持っておられます。しかし、その神が遣わされたイエスがこう言われたのです。「わたしもあなたにさばきを下さない」(11節)。イエスは「わたしも」と言っていますが、理由は律法学者やパリサイ人とはまったく違います。むしろ、彼女の罪をよくご存知で、裁かなければならない神の御子であるイエスが「わたしもあなたにさばきを下さない」と語ることには、大変重い決断があったはずです。
3、人の罪を背負い、赦し、悔い改めを願う救い主
律法学者とパリサイ人たちは、イエスに女性を訴えておきながら無責任に去って行きました。しかし、イエスは最後まで残り、彼女と向き合い、そして語られました。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と(11節)。神の願いは、罪を裁くことではなく、罪を犯さないようになることなのです。刑罰を下すことではなく、赦すことです。そして、同じ罪過ちを繰り返すことではなく、罪を離れ、新しく生きることなのです。
しかし、2、の最後で触れたとおり、イエスが「わたしもあなたにさばきを下さない」と宣言する背後には、大変な責任がともなったことは間違いありません。聖書が死罪と定めているのに、それを実行しないということは、律法違反であり、立法者としての義務違反だからです。しかし、イエスがこのように言い得たのは、イエスご自身が彼女の刑罰を受ける覚悟をしておられたからに他なりません。イエスは、やがて十字架に架けられ、最も苦しく、最も重く、最も恥辱的な刑罰で死ななければなりません。それは人が受けなければならない神からの刑罰を代わりに受けるためだったのです(Ⅱコリント5:19,21、ローマ8:3等)。自分も罪を犯し、裁きの責任から逃げた律法学者やパリサイ人とは違います。刑罰を実行する責任を負いながら、その刑罰をご自身が負う決断のもとに「わたしもあなたにさばきを下さない」と宣言されたのです。裁きを下さなければならない神が人を赦すというのは、並大抵のことではないのです。そのためにご自分が罪人として死ななければならない。それでも、自分の苦しみ、栄誉、いのちと引き替えにしてでも、彼女を救い、彼女が罪から離れて欲しい。まさに命がけで、彼女を愛してくださったのです。イエスは、決して罪を甘く見ているわけではありません。仕方ないとも、しても大丈夫とも思っていません。ただ、そこから人が離れるためであれば、喜んでご自分のいのちも栄誉も投げ出す。そのような犠牲を払うほどに愛された。その結果が、この言葉なのです。その犠牲によって、イエスは「行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と語られたのです。
彼女は、まだイエスの十字架を知りません。けれども、この赦しの大きさを覚えた彼女は、イエスのことば通り、二度と同じ罪を繰り返さなかったでしょう。律法学者とパリサイ人にとらえられた時点で、死罪にまではならなくとも、人生の終わりを覚悟したと思われます。しかし、イエスによってむしろ、律法学者とパリサイ人からも開放されたのです。この神の愛が、人を罪から救うのです。心にある隠れた罪の性質にも気づかせ、それを認め、安心感の中で悔いる素直さへと導いてくれます。
私の隠れた所も、醜いところもすべてご存じの方が、「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と語ってくださる。裁くべきお方が、裁くよりも私たちの身代わりにまでなって、私たちを赦し、私たちが生き、前進することを望んでくださる。命がけで愛してくださる。この救い主の声が、私たちを罪の性質から救い出し、新しく生きる力を与えてくれるのです。
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