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みことばの糧21

良くなる意欲を失った者さえ立たせる救い主のことば

そこに、三十八年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」 

ヨハネの福音書5:5~6

 向上心は人が人として生きて行く上で、非常に重要な心の一つです。しかし、自分の力ではどうにもならない事態が続いたり、過去の自分の失敗等が問題を大きくしているとき、失望感の大きさの故にその意欲さえ失ってしまうことがあります。イエス・キリストは、そのような人の心とそして理由を深く理解してくださる方。そして、意欲そのものを失ってしまった者をさえ、自分の力で立たせ、歩ませることの出来る方。ヨハネ5:1以降のこの記事は、その希望を私たちに教えています。

1、良くなりたいという思いさえ失った者の心に寄り添うイエス

 この箇所に出てくる男性は、「三十八年も病気にかかっている人」とありますが、おそらく単なる病気ではなく、今で言う障がいだっただろうと思われます。その彼にイエスは「良くなりたいか。」と語りかけます。「良くなりたいに決まってる!」。普通ならばそのように言い返したい状況でしょう。しかし、彼は「良くなりたい」と応えることも、言い返すこともせず、こう答えます。「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます。」(7節)。この言葉だけ聞くと、いかにこの人が他人任せで、人や環境のせいにし、無気力な人かという印象を受けます。しかし、この男性がそうなってしまうには、十二分な理由がありました。

 男性が横になっていた場所は、ベテスダの池と呼ばれる、エルサレム内の人工池のそばにある回廊でした。当時、その池の水を天使がかき回した時に、最初に水に入ったものが癒やされるという伝説、おそらく迷信があったようです。彼も、その奇跡的癒やしを願ってそこに来たか、親族がそこに連れてきたのでしょう。しかし、実際に水が動いたと思っても、「行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます」。結局、状態の良い人が先に行くだけなのです。さらに、彼には「水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる」、親族や友人もいませんでした。彼は、最初から自暴自棄であったわけでも、無気力であったわけでもなかったに違いありません。最初の内は、必死で池に入ろうとしたり、誰かに入れてくれと叫んだりしたことでしょう。しかし、どれだけ努力しても、どれだけ助けを求めても、すべての試みは水泡に帰してしまいました。それを繰り返す内に、しかも三十八年という長い年月が、彼の意欲を奪い、無気力にし、環境のせいにしかできない状態にさせてしまったのでしょう。勿論、本人にまったく責任がないとは言えないかもしれません。しかし、このような状況で「良くなりたい」という意欲を持ち続けられる人がどれだけいるでしょうか。「すでに長い間そうしていることを知ると」と記されているイエス・キリストは、まさにそのような彼の置かれた状況をも理解してくださったのです。そして、「大勢の」「病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが」横になっている中で(3節)、あえて彼にイエスは、声をかけられたのです。「良くなりたいか。」と。「良くなりたい」という意欲、向上心を失い、「良くなりたい」と答えられない、彼に声をかけてくださったのです。

 このように救い主は、意欲さえ失ってしまった者の状況、心をないがしろにせず、目を留め、理解してくださる方です。この世で無力感を味わっている方に対してもそうです。それと同時に、この世で問題なく生きていられるようでも、自分の性格、人間関係、生きる意味等、様々な点で無力感を味わっている方は、少なくないのではないでしょうか。私自身そうでした。それを社会のせいにしたり、環境のせいにしたり、家族や友人のせいにしたり、開き直ったりしているかもしれません。けれども、イエス・キリストは、だれのせいにするのでもなく、あなた自身に問いかけられるのです。「良くなりたいか。」と。

2、意欲のない者さえも立たせる救い主の言葉

 しかし、今まで充分過ぎるほど努力しても結果の出なかった人に「良くなりたいか。」と問うのは、あまりにも無責任で、無神経な言葉に聞こえてしまいます。普通ならば確実にそうです。しかし、イエスの言葉は、無責任でも、軽口でも、気休めでもありませんでした。イエスが「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」(8節)と語ると、次の瞬間「すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した」(9節)のです。聖書は、この出来事をあまりにも簡素に短く記しますが、これはとんでもなく驚くべきことです。なぜなら、彼は障がいを持って立てないどころから、「良くなりたい」という気力さえ失った人だったからです。その人が、「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」という普通ならば無茶な命令にどうしてすぐに従えるでしょうか。物理的にも心理的にも不可能です。しかも、イエスは、彼に癒やすとも治るとも言っておられないのです。さらに、彼は自分に「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」と言った人物がイエスという、当時奇蹟を起こすことで、ちまたで有名になりつつある人であることも知りませんでした(13節)。聖書に記される癒やしの多くは、癒やされる人が、イエスのことばを信じて従った時に癒やされます。しかし、彼はイエスが誰かも知らず、癒やされることも知らず、期待もしていなかったにもかかわらず、イエスの命令に従い、癒やされ、立ち上がり、歩き出したのです。救い主の言葉には、このような力があるのです。良くなる意欲さえ失ったものに意欲を起こさせ、聖書の命令に従い、立ち上がる。そして、床を取り上げて歩くという自分の弱さを乗り越え、自立した生き方を可能とさせる。そのような力があるのです。

死者をも生かし立たせる救い主のことば

 このように自分から良くなろうという意欲さえ失った者を立たせる救い主のみわざについて、イエスは25節でこう言っています。「まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます」。確かに聖書は、救い主の救いが肉体的に死んだ者さえもよみがえらせることも約束しています。しかし、イエスは「今がその時」と言っています。「」というのは、三十八年間病気で苦しんでいた彼が、イエスのことばを聞いて立ち上がった「」です。「死人」というのは、自分から考えることも、答えることも、まして良くなろうとすることなどできません。まったくの無力です。しかし、救い主は、その人の内にまったく力のない状態でも、無からいのちを産み出すことの出来る方なのです。聖書のことば、救い主のことばは、このように私たちの内に復活の力を引き起こすことが出来ます。今まで経験した絶望、どれだけ努力しても解決しなかったこと、あるいは努力する意欲さえわかなかった者の心にさえ働き、きよめ、立ち上がらせる力があるのです。聞く私自身が無力であってもです。キリストの言葉は、まったく無力な者にさえ、立たせ、良くする力があるのです。

人を罪の性質から生かし、立たせる救い主のことば

 そして、この救い主の力が最も必要なのは、私たちの心の性質においてです。人は、多くの場合目の前の問題の解決ばかりに目を留め、それをすぐ解決できるかどうかで、人や情報、教えの価値を判断します。しかし、聖書は本当の問題は私たち自身の心の性質にあることを教えています。今日の箇所に出てきた男性もそうでした。良くなる意欲さえ失っていた、彼の心に問題がありました。また、天使が水をかき回したとき、最初に入ったものが癒やされるという虚しい迷信に希望を置くこと自体が間違いでした。それは、聖書が教えることではありませんでしたし、結局状態の良い人、手段を選ばない人、人脈のある人が先に行くという点でも、神の喜ばれる方法ではありませんでした。良くない方法でも、目の前の問題を解決する手段さえあれば、手っ取り早く解決できれば、それを正しいとする。これもまた聖書が教える罪の一つです。神を信頼していないからです。彼が無気力になった原因の一つも、彼を見捨てる社会の問題であったと同時に、彼自身が虚しい希望しか追い求めていなかったからです。また、14節でイエスが「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」と言っているところを見ますと、もしかすると彼の病気・障がい自体も、彼の過去の悪い行いに起因していたのかもしれません。聖書は、病気や障がいの有無がその人の罪深さと関係あるわけではない。むしろ神の栄光を現すために与えられる障がいもあること教えています(9:3)。しかし、私たち自身の心の性質や、悪い習慣、過失等が自分を苦しめてしまうことがあることも事実です。そして、その自分の性質を自分の努力だけで克服できるかというと、勿論克服するために最善を尽くすべきです。しかし、本当に無力だと言わざるを得ない面があるのも事実です。そして、その無力さの故に、打ちのめされたり、開き直ったり、人のせいにして生きていることも少なくありません。そして、その解決の力を持つ神に向かず、虚しい、一時的で、うわべだけの解決方法にすがっている。それは、まさに「死人」の姿なのです。

 しかし、イエス・キリストの言葉は、そのような私たち(私を含め)さえ、立たせ、従う力を与え、自分の限界を超えて良くなろうとする意欲と、環境を超えて良くなる力を与えてくださるのです。ですから、救い主のことば、聖書のことばに耳を傾けていただきたいのです。キリスト教的な何かではありません。聖書そのものの言葉、救い主の言葉に目を留め、耳を傾けてください。