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みことばの糧27

救い主到来の預言の成就 ~神を信じない者に与えられた神ご自身からの救いのしるし

それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエル(主がともにおられる)と呼ぶ。

イザヤ書7:14

 

 この御言葉は、救い主のお生まれを預言した言葉の一つであり、イエス・キリストがお生まれになる約700年前に記された言葉です。この預言の通り、救い主イエス・キリストは処女マリアからおうまれになりました。

 しかし、聖書の預言は、単に未来の出来事を言い当てる「予言」ではありまあせん。そこに神から人間に対する非常に重要なメッセージが込められています。そして、その預言通りにキリストがお生まれになった事実は、今の私たちにとっても厳粛なメッセージと救いの尊さを教えてくれます。このメッセージを覚えてこそ、クリスマスの素晴らしさと重要性が教えられる。上記の御言葉は、そのようなみことばの一つです。

1、この預言がなされた時代の王は流行に敏感で即物的だった

 当時、イスラエル王国は、二つの王国に分裂していました。そして、北王国は聖書を捨て去り、聖書の神の名を借りながら、その実は自分たちの願望を神としていました。南のユダ王国は、北王国に比べると聖書に立ち、神の御前に正しく生きようとして来たのですが、それでもなお堕落の影響を受けるようになっていきました。そしてユダの王がアハズの時代、アハズは、聖書や預言者の語る道よりも、当時の流行を重視するようになりました。異教の偶像を取り入れ、こどもたちを宗教のために犠牲にすることさえしました(Ⅱ歴代誌28:3)。このような行為は、現代でこそカルト的な忌み嫌うべき習慣と言えますが当時の人にとってはむしろ、世界の流行であり、最も効果的だと多くの人が考えてしまうような習慣だったのです。アハズがとった政策の具体的内容は、現代とは真逆の性質をもっていましたが、その背景にあった流行を取り入れる考え方、自国の安全のためには神に信頼するよりも当時の世界の流れに従うという考え方は、むしろ現代に非常に近いものだったのです。

 その時代に、非常に大きな国家的危機が訪れます。ユダ王国から北北東に位置するアラムが、ユダ王国を襲おうとしている中、兄弟国であるはるの北イスラエルまでもがアラムと手を組んだのです。以前アラムは、ユダ王国を襲い、ユダ王国は大変な被害を被っていました(Ⅱ歴代誌24:23)。それでもまだ、ユダ王国とアラムの間には、北イスラエルがあったので少し距離を置くことができていました。ところが、北イスラエルまでアラムの側についたとなれば、ユダ王国は圧倒的に不利です(イザヤ7:1~2)。「王の心も民の心も、林の木々が風に揺らぐように揺らいだ」とあります(7:2)。しかし、神は預言者イザヤを通して「それは起こらない。それはあり得ない」。神に信頼して、この時を乗り越えるようにと告げたのです。それでもなお、神を信じようとしないアハズに対して、神が語られたのがイザヤ7:14の預言だったのです。

2、信じない者に与えられる神のしるし

 神をまったく信じようとしないアハズに対し、神は預言者を通して「あなたの神、【主】に、しるしを求めよ。よみの深みにでも、天の高みにでも。」と語ります(7:11)。現実的な危険の中で見えない神に信頼できないのならば、信頼できるように求めよ、ということです。本来神を試すことは罪です(申命記6:16)。しかし、神はご自分に反抗するイスラエルをも愛しておられました。その故に、あえて神に「しるしを求め」てでも、神に信頼できるようにと手を差し伸べられたのです。もし、このまま世の流れに従えば、彼ら自身罪を重ねることになり、滅びを招くことになる。そのことを神は望まれなかったのです。

 実際、アハズ王は迫る危機を乗り越えるために、神に信頼せず、アラムよりも北にあった強国アッシリアを味方につけて対処しようとしました(Ⅱ列王記16:7~9)。一見、その政策は功を奏したかに見えました。アッシリアは、アラムを滅ぼし、イスラエル北王国にも攻め入りました。しかし、その判断がかえって北王国の滅びを早めるばかりでなく、アハズ王自身、ユダ王国自体をも苦しめることになったのです(Ⅱ歴代誌28:20)。この世は、信頼する者に手っ取り早くわかりやすい現実的な助けを与えるように見えます。しかし、最終的に保証はしてくれません。むしろ、裏切ることが多い。神を離れたこの世の現実なのです。

 しかし、神は本当に愛することなく、助けるように見えて結局裏切るこの世とは違います。反抗する彼らをも最後まで責任を持って滅びから救いだそうとしてくださる。そして、自分から神にしるしさえ求めようとしないアハズに対して「主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えら」れた。それが「処女」を通して生まれる「インマヌエル」(訳すと「神がともにおられる」)と呼ばれる赤子だったのです。

3、自分で招いた苦難にあえぐ者にも手を差し伸べる神

 そのように、アハズは心から心配する神の手をはねのけ、アッシリアにの力に頼りました。その結果、アッシリアはアラムを滅ぼすばかりでなく、イスラエル北王国をも滅ぼします(Ⅱ列王記18:9~10)。しかし、それだけで留まらず、アッシリア王国はユダ王国にまで手を伸ばそうとします(イザヤ8:7~8)。それでもなお、神はユダ王国を滅びから救い出されたのです。結果を見れば、神がイザヤを通して「それは起こらない。それはあり得ない」(7:7)と告げた通り、アラムと北イスラエルの計画はなりませんでした。そして「エフライムは六十五年のうちに、打ちのめされて、一つの民ではなくなる」(7:8)と言われたとおり、北イスラエルは滅びたのです(エフライムは、北イスラエルの代表的部族)。そして、アハズの神への反抗にもかかわらず、ユダ王国を救い出されました。そのしるしが、「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエル(主がともにおられる)と呼ぶ」という出来事だったのです。

 この「男の子」は、当時、文字通りの処女から生まれた訳ではなくとも、若い女性を通して生まれたこどもがおり、それが「しるし」となって、神のユダ王国に対する深いあわれみの「しるし」となったと思われます。そして、この預言の完全こそが、約二千年前、文字通りの処女を通してお生まれになったイエス・キリストだったのです(マタイ1:23)。

4、キリストの誕生は今も神に反抗する者に対する神の救いと滅びのしるし

 ですから、この預言は単に救い主がお生まれになるという「予言」の成就に終わりません。単に、キリストが処女を通してお生まれになった証拠の一つであるだけでもありません。イザヤが預言した当時そうであったように、今も神に信頼せず、救いを求めることも期待することもない人々のために、神ご自身がお与えになった「しるし」だということです。そのしるしは、神に信頼せず、正しい道を歩もうとしないすべての人に、確かに滅びがくだる「しるし」でもあります。ユダ王国が兄弟国の北イスラエルの脅威にさらされたのもユダ王国自身の罪の為でした(Ⅱ歴代誌28:9)。そして、北イスラエルもまた自分自身の罪の滅ぼされました(Ⅱ列王記18:9~12)。そして、ユダ王国も自分の罪のために滅ぼされて当然であったにもかかわらず、すんでのところで救われた(イザヤ8:4~8)。

 それと同じように、やがて神は、必ずすべての人に対して裁きをくだされる。けれども、神ご自身に信頼し、神ご自身に避け所を求める者を、神はその反抗にもかかわらず、必ず救い出してくださる。私たちのところに下り、ともに住もうとしてくださる。その「しるし」が、処女マリアを通して家畜小屋でお生まれになったイエス・キリストの誕生だったのです。

 今も私たちは、様々な現実の脅威の中に生きています。けれども、本当に恐れなければならないのは、自分自身の心に巣くう、神に反抗し、自分中心に考え、悪い欲望を持ってしまう、罪の性質なのです。この性質と、その性質から出てくる行いが、結局周りの人を傷つけ、自分自身をも苦しめます。けれども、神はそのように自分の罪で苦しむ私たちをも愛し、救おうと救い主を送ってくださった。しかも、自分の方から、「神を求めない」「そんなしるしはいらない」と言ってしまう人のためにさえ、神はキリストを遣わし、私たちの身代わりに十字架につけてくださったのです。

 ですから、どれほど現実的な問題が切実であっても、私たちの本当に恐れなければならないのは、自分自身の内にある罪です。そして、本当に求めなければならないのは、神ご自身が「しるし」として与えてくださったイエス・キリストなのです。ぜひ、この方に目を留め、本当のクリスマスに期待して頂きたいのです。