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みことばの糧33

2023年1月28日

行いのない信仰は死んでいる ~信仰は行いによって完成され、その信仰がその人を救う~

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。 ……中略…… あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。

ヤコブの手紙2:14, 22

 

 聖書は、人が義と認められるのは、そして救われるのは、行いによらず信仰によると教えます。これは非常に重要な教えです。しかし、ヤコブは一見それとは真逆のことをこの箇所で教えています。とくにヤコブはこの段落で「アブラハムは、……行いによって義と認められたではありませんか」(21節, 参考25節)と言って、聖書の中心的教理とまるで反対のことを言うのです。この言葉は、多くのクリスチャンにとっても衝撃であり、戸惑わせる言葉です。しかし、これはどちらが正しいかという問題ではありません。人間は、白か黒か、右か左か、ワクチン賛成か反対か、問題を明確に二つに分けたがる性質があります。あるいは、どちらでもないと言うと、その中間という曖昧な表現を選んだりします。しかし、どれも物事の本質をとらえてはいません。物事は、多くの場合それほど単純ではなく、複数の側面を持っております。どちらの側面も重要であり、その二つの側面がどのように関係し合うべきかが重要です。この信仰と行いの問題もそうです。人は行いによって義と認められないことは、聖書において真実です。心も行いも、すべてをご存じの神の御前に完全である人はだれもいないからです。しかし、本当の救い主への信仰は行いを生み出します。キリストへの信仰は、私たちの心を導き、聖め、自主的な行いを生み出します。行いを生み出さない信仰は、死んだものであり、人を救うことは決してないのです(14節)。

1、行いのない言葉と信仰は死んでいる

 確かに人は行いによっては神から義と認められず、行いによって神に受け入れられることはできません。しかし、行いのない信仰について、ヤコブはこのように喩えます。「兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう』」(15~16節)。口だけは親切でも、優しくても、行動が伴わなければ何の役にも立ちません。一昔流行ったドラマで「同情するなら金をくれ」という台詞が話題になりました。お金より大事なものがある。お金で一時的に問題が解決しても、本当の問題は解決しない。それはそうです。けれども、本当に困窮している人は、今、具体的な助けを必要としていることも事実です。言葉だけの慰めは、かえって残酷でさえあります。行動と責任が伴ってはじめて、本当の親切だと言える。それと同じように、「信じる」という言葉や気持ちだけでは、意味がありません。信じた人は、信じた通りに行動してはじめて信じたと言えます。イエス・キリストを信るだけで救われるのは、信じた人が信じたことによって判断し、信じた通りに行動に移すからです。そして、その判断と行動が、この世の様々な歪み、問題や汚れからその人を救うのです。

2、信仰は行いを生み出し、行いによって裏付けられる

 このように信仰が行いによって完成されるという事実は、旧約聖書にも見ることができます。とくに信仰の父アブラハムは、パウロも信仰義認(人は、行いによってではなく、信仰によって神に正しいと認められるという教理)の例としてとりあげるほど、信仰の代表者です。とくに創世記15:16で「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」と書かれている通りです。そのアブラハムも、信じた通り行動した人物でした。アブラハムは、最初現在のイラク東南部にあるウルに住んでおり、ウルは月を神として拝む、文明的にも栄えた街でした。しかし、神が「わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする」と言われたとき(創世記12:1, 2)、アブラハムはその言葉を信じ、行動に移しました。アブラハムの父テラは、途中で旅をやめてしまいましたが(同11:31)、アブラハムは最後まで故郷に戻らず、神が示された地に生き続けたのです。生涯、墓地以外の土地は与えられず、常に寄留者として肩身の狭い立場であり続けたにもかかわらずです。その結果、神は約束通りにアブラハムの子孫をイスラエルという一つの国家にまで成長させました。そして、今も大勢の人が、アブラハムと同じ神を信じる信仰の家族としていただいています。それは、アブラハムが信じた通りに、行動した結果でもあります。

 聖書の言葉、救い主のことばというのは、信じて従ったときに、神の救いを経験するものなのです。行動に移さないのは、そのことばを信じていないことに他なりません。信じたことを行動に移して、はじめて信じたと言えるのです。「信仰は行いによって完成され」るのです(22節)。

3、行動に移すべき信仰の中身

 しかし、このように言うと、多くの人はカルトの問題を意識し、心配されるかもしれません。とくに今はその心配が強い時代です。しかし、カルトと呼ばれる宗教は、聖書そのものではなく、聖書の言葉の権威をかりた人間の思想によって支配されている団体です。カルトと呼ばれる宗教は、ほとんどの場合、聖書に書かれていないところに真理が隠されているように教えたり、聖書を改ざんしたり、聖書以外の文書、パンフレット、人物などに聖書以上の権威を持たせています。

 それでは、聖書が教えている、行動に移すはずの信仰とは何でしょうか。ヤコブは、この2章で「えこひいき」の問題を取り上げています(2:1)。当時、「金の指輪をはめた立派な身なりの人」というのは、ローマ帝国において強い権威を持ち、機嫌を損ねたら大問題となる人物でした(2:2)。それでも「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされた」(5節)のならば、貧し人より金持ちを優遇しないはずだ。そのように教えたのです。金持ちに対して、非礼を働いてよいということではありません(Ⅰコリント13:5)。金持ちも貧しい人もえこひいきせず、神が尊んでおられる人を、信じている私たちも尊敬する。たとえ、相手の身なりがみすぼらしくても。ということなのです。

 そして、イエス・キリストご自身も、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい」(マルコ10:43等)と教えられました。イエスをキリストと信じているならば、この言葉を信じるはずです。この言葉を信じているならば、人に身を低くして仕えることを光栄に思い、喜んで仕えるはずなのです。

 このように救い主の教えは、カルトのような反社会的な教えではありません。むしろ、社会が求める以上に、うわべだけでなく、心から人をえこひいきせず、尊び、仕えることを教えています。勿論、この世の流れに同調しないという重要な側面を持っています。しかし、問題になるのは、ほとんどの場合聖書そのものの教えではなく、聖書の権威を借りた人間の主張です。クリスチャンも、気をつけないとキリストご自身が正しいと言いながら、罪人に過ぎない自分の正しさを主張してしまったり、自己弁護していることが少なくありません。自分自身が神の御前に多くの問題を抱えていることを素直に認め、常にキリストの救いにのみ依り頼み、聖書の言葉を信じていくところに、本当の救いがあるのです。

4、信じていても行動に移せない弱さを持っている

 しかし、聖書の言うとおりに従ったら、現代の日本ではきっと問題が起きるのではないか、むしろ損をするのではないか、そのような不安が出てきます。だからこそ、そこに信仰があるのです。聖書の言うとおりにしたら、余計苦しむのではないか、恥をかくのではないか。そのような不安は、現代の日本よりも、むしろローマ帝国の支配下にあったヤコブ書の第一読者の方がはるかに強かったはずなのです。1:1に「離散している十二部族にあいさつを送ります」と書かれているように、各地に散らされた彼らの立場こそ非常に弱かったのです。それでも聖書の言葉を信じ、従っていくときに力強い神の助けをヤコブ自身が経験していました。かつてイスラエルがエジプトの奴隷から解放されたときも、神のことばに従う度にかえって問題が悪化するように見えました(出エジプト5:7等)。しかし、最終的には争う事もなく、一人の血を流すことも、からだの弱い人を犠牲にすることもなく、全員がエジプト王の命令によって、徒歩で脱出することができたのです。

 このように聖書の言葉に従うためには、本当に神が私たちに誠実を尽くしてくださるという信仰を必要とします。そして、その通りに実行していくときに、神の約束は間違っていなかったこと、神が本当に誠実な方であることを、身をもって経験させていただけるのです。行動に移さなければ、結果を見ることもありません。神のみわざも経験しません。「そのような信仰がその人を救うこと」はできないのです(14節)。信じたことを行動に移してこそ、神のみわざを経験し、その行動と神のみわざがその人を救う神の力となるのです。

5、信仰を行動に移して幸いを得るようにとの神の招き

 このように聖書の言葉を信じ、行動することこそ、最も確実で安全な道である。これが神の知恵なのです(1:5)。この知恵は、信じたことを行動に移すことで裏付けられていきます。本来、信じたことを行動に移さないのは、信じていないのと同じです。しかし、行動に移せない人は、救われていないと不安に思うべきでもありません。なぜなら、ヤコブは「私の兄弟たち」(14節等)と言って、信じているはずのクリスチャンに対してこの手紙を書いているからです。信じているはずなのに、まるで信じていないかのような行動に陥ってしまう。そのような弱さを私たちは持っています。だからこそ、神はこのヤコブ書を通して私たちに、本来の信仰を教えてくださっています。この言葉に励まされて、信じたことを行動に移すように。そして、移した結果、神のことばが真実であるという経験をし、信仰と行いが表裏一体のものとなっていくように。そのように神は私たちを導こうと、なおも愛の手を延べてくださっているのです。ですから、この箇所の言葉を通して、自分に語りかけ、自分を戒め、ますます救い主のことばを信頼し、行動に移していこうではありませんか。そこにこそ、神の救いのみわざがあることを信じようではありませんか。

※補足 このメッセージにおいて「救い」という言葉は、罪の赦しだけを指していません。14節で聖書が記す「救い」という言葉自体が、そのような意味に留まっていないからです。罪の赦し、永遠のいのちは確かに重要な「救い」です。その重要性を軽視をしているわけではありません。しかし、神の民とされた人たちが、キリストのことばによってさらに聖められ、生き方、判断力がかえられ、神からの祝福と幸いを得ていく人生の過程もまた、聖書は「救い」と呼んでいることもまた事実です(参考Ⅱテモテ3:15の「救い」も、すでに牧師であるテモテに対して「信仰による救いを受けさせることができ」ると、なお未来のこととして書かれています)。